降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

4つ目の窓 植松被告の死刑判決によせて

植松被告の死刑判決。

 

ふとジョハリの窓が気になった。ジョハリの窓は格子に区切られた4つの自分を表したもので、自分も他人も知っている自分、自分は知っているが他人は知らない自分、自分は知らないが他人は知っている自分、自分も他人も知らない自分の4つがあるというもの。

 

ja.wikipedia.org

 

どういうものだったかと思ってネットを見ると、ジョセフ・ルフトとハリ・インガムの二人の名前を合わせてジョハリだとあった。

 

最後の、自分も他人も知らない自分という領域が気になったのだった。自分も他人も知らない部分、この4つ目の窓を、この格子の図を作った人たちはどう位置づけていたのかと、ちょっと確認したかった。残念ながらwikiではそこについてはほぼ言及はなかったけれど。

 

一般に、ある人がどんな人であるかにおいて、自分も他人も知らない4つ目の窓の存在が仮定されることはないと思う。他の3つの窓で認識されていて、それ以外があるとは思われていない。思うこともできない。

 

知らない部分は知った途端に知られた領域になるから、知られない部分があとどれぐらい狭いのか、あるいは広大なのかもわからない。しかし、この4つ目の領域の存在の仮定を、自分に対しても、他人に対してもどれだけ持ちうるかで、間違いを犯す存在である自分、そして同じく他人に対しての態度が変わってくるだろうと思う。

 

もしこの4つ目の窓を自分に対して仮定できるなら、その人はより自分を受け止めることができるようになるだろうと思う。また、他人に対しても、自分もその人も知らない4つ目の窓をその人が持っていると仮定できるならば、その人に対して人は謙虚になれるのではないかと思う。

 

4つ目の窓をどれだけ仮定できるかが、人が人として育っていくためにどれだけ必要なことだろうかと思う。3つの窓だけをもって、自分を、あるいはその人を知ったということは傲慢にすぎることだろうと思う。人間の価値を人間が決められるだろうか。たとえ国であれ、誰かの価値を決めることができるだろうか。

 

しかし、人が追い詰められるとき、人は3つの窓だけで生きるようになるのだろう。そしてそこには自分に対する絶望も含むまれるだろう。自分とは所詮知ることができた自分、他人が知っている自分に過ぎないのだと。

 

現代の「合理性」、「効率性」というものは、3つの窓のことだということをよく認識する必要があると思う。4つ目の窓をふくめてはじめて、そこには全体があらわれるはずだ。

 

4つ目の窓をふくめてはじめて、あることは「合理的だ」「効率的だ」と判断できるのであって、3つの窓から知った「合理性」や「効率性」は偏っており、もし厳密に判定するならば「間違い」であるはずだ。

 

現代は、人に4つ目の窓を仮定することを失った時代なのだろうか。知っているものを全てだと思い、その「合理性」をどこまでもおしひろげていこうとする社会は、人間的な社会であるだろうか。そんなところで、人間が人間になっていけるだろうか。

 

既知のものが全てであるかのように、ゆがんで思考し、認識してしまう人間には、その無自覚な認識の歪みと暴走性をふまえた人間観が必要なのだと思う。

 

人はごく自然に、自分に出来上がった認識を疑えなくなっていく傾向がある。強く意識して、ニュートラルな視点にとどまっていられるという認識がそもそもの間違いなのだけれど、それを認めることがなかなかできない。

 

自分が足を踏んだ他者や、抑圧されている他者から自分に向けられる声を、おかしなもの、ゆがんだものとして受け取ってしまう。別のことには見識がある人が、まるで聞かん坊になったように、あるいは相手を理性のない子ども扱いしたりする。

 

自分が正しいという歪んだ認識は、誰にも厳然として存在する。痛みをもって声をあげた人がモンスターに感じられ、自分は不当なことをされる被害者のように感じられる。理性には限界があることを知らなければならない。自分がもともと歪んだ認識をもってしまっていることが前提されなければ、現実的にはなれない。

 

僕は、人間は自分も他人も知らない自分、あるいは他人という4つ目をあらかじめ踏まえるものとして、あらかじめもった罪という考え方は機能的であると思う。

 

僕はキリスト者ではないけれど、知ることができない4つ目の窓を仮定するためには、誰もがあらかじめもっている罪という、自分を振り返り、暴走をさせないための認識の装置をもつことが非人間化していく社会において有効なのではないかと思う。

 

歪んだ認識をもった個人として、それにもかかわらず自分が人間になっていくためにも、あらかじめもっている罪という捉え方が有効なのではないかと思う。