降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

救いのありか

何を前提にして生を考えているか、というところで話しが食いちがってしまう。

 

ある人は、やがてくる「幸せ」のために生きている。「幸せ」が先にあるから、その実現を想像して高揚して日々を生きている。が、その「幸せ」は約束されたものではない。自分が想像しているゴールまでの「レール」は些細なことで壊れてしまうものだと思う。その時、その人は騙された、裏切られたと思うのかもしれない。誰に強制されるわけでもなく、自分がそう信じていたことであっても。

 

その状況に直面するまでは自分のその信念と違うような話しがあっても、それを探究してみようとは思わず、シャットダウンする。

 

ある人は社会とか国とかがまともなものだと思っている。改革したり、もし善意と才能のあるリーダーやしっかりした人が出てくれば、社会を変えるいいやり方が見つかれば、「社会」は正常化して幸せな世界が到来するのだと。

 

いや、部分的にはどうであれ、人間は全体としては、自分のコントロールなんかできずに、むしろまっすぐに着実に破綻に向かっているじゃないかと思う。社会や国をまともだと信じたいのは、自分の生を揺るがされたくないからだと思う。その恐怖のために、実際をみないし、考えない。多くの人が自分が安心する都合のいい考えを採用する。そして社会は多くの人を軸としてできている。

 

同じリアリティを共有する人と話したいと思う。

 

僕はつまるところ、「救い」はどこにあるのかを探している。

 

news.yahoo.co.jp

 

青木恵子さんは冤罪で20年間収容されていた。その20年間とは何だろうか。

 

冤罪で死刑判決を受け、獄中死した人もいる。

tocana.jp

 

生まれた時から長くは生きられない人がいる。胎児性水俣病をもって生まれてくる人もいる。

 

一般的には、生まれることは幸せなことだと押しつけられる。だがそういう信念を受け入れた人も、調子悪くなれば、中絶された胎児が羨ましいと思ったり、そもそも生きものとして発生もしないのが一番理想的な状態だと思ったりするのではないだろうか。

 

「幸せ」になるために生まれてくるのではないと思う。生まれてきた時点で終わりであって、全ての人は難民としてこの世界にきていると思う。生は無秩序であり、容赦がない。

 

しかし、この世界に生んだ人を恨めばいいかというと、そうしても世界が輪をかけて荒廃する。自分の意思によって、自己決定で子どもを生んでいるという捉え方がそもそも間違いなのだろう。どうしようもなく交わり、どうしようもなく生んでしまう。

 

鮭は産卵時に川を上るものだ。だから人はそこに網を仕掛けるし、野生動物も毎年のものとして鮭をとらえる。鮭にはどうしようもない。人が生きていることも、つまるところではさして変わらないことなのだと思う。ヒトとしての体を持つ以上、川を上るように、子どもは生んでしまうものなのだと思う。

 

コントロールする「意思」ではなく、どうしようもなさが生きものの特徴であり、人間の特徴であるのだと思う。人間を意思の主体と考えるか、どうしようもなさを生きるものと考えるかで、そこに生きる人たちのやさしさは随分と変わるだろうなと思う。

 

きらびやかに生きようとすること自体が、底にある絶望の裏返しであり、抑圧の行為であるのだと思う。

 

生きなければいけないのではない。ただ、自分から死へ向かうには恐怖や苦痛が伴い、死に切れない。死に切れないのならどうするか、というところで生きるということが妥当に位置づけられるのだと思う。

 

生きるというのは、どういう感覚なのか。僕のイメージでは、三好春樹さんの「野生の介護」で紹介されていた斎藤恵美子さんの詩にあらわされているような感じが近いと思う。

 

「不安」 斎藤恵美子

 

パジャマに着がえて寝てください

暗くなるたび、言われるけれど

「ぱじゃま」も「きがえ」も「ねてください」も

何のことだか、わからない

「かけぶとん」も「うわばき」も

「めがね」も「まくら」も「はぶらし」も、わからないから

服のうえから、ねまきをはおって歩いてみる

窓に、けしきが、ながれている

あかりのなかの雨、のようだ

匂いはしない

はだしになって、椅子のありかをひきよせる

わからない

じぶんはいつまで、この病院にいるんだろう

病院じゃあない、ホテルだよ、ここはね

老人ホテルだよ

息子のようなおとなが声で、おしえてくれた気がするが

「ほてる」もさっぱりわからないし

じぶんの数もわからない

ひとりのようで、ふたりのようで

娘のようで、老婆のようで

むかしは、人の親までこなした、そんな気丈な女のようで

もどることができるだろうか

何から、はぐれてきたんだろう

わたしは、パジャマを、おそれている

わたしは、ねまきをもっている

からかみを背景にして大笑いするあの女

写真のなかのばあさんを

わたしとおもえたことはない

椅子にはさんだ、絹ざぶとんの、ほこりっぽいにおいのなかに

じぶんにちかい湿気があるが

窓のけしきはながれない

わからない

感情だけが、ぽつんと生きのびているようだ

雨の数は、やがて、はやい

椅子から、おしっこがわいてくる

わからない

写真の女の、口をまねして笑ってみる

床がしっとり匂いだす

長谷川さぁん、と呼ばれている(『最後の椅子』思潮社

 

わたしとは、この状況というピンボール台にいれられたピンボールなのだと思う。記憶や認識とは状況であって、わたしではない。

 

そんな感覚がふつうに感じられるようになることが僕にとっては救いであるように思う。

 

 

 

 

最後の椅子

最後の椅子

 

 

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