降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

香害と脱うさぎ化 非人間化された状況を人間化していくこと、文化をとりもどしていくこと

カライモブックスさんで香害について話す。自分も行き違う人や隣家からのシャンプーのにおいもきつく軽い頭痛がでる。一方で他の人がきついと思うファブリーズとかのニオイ消しの香料や整髪料はまだ気にならない。男性のニオイ消しはCMで異性に嫌われると煽られ繰り返し宣伝されている。宣伝すればするほど売り上げはあがるということだ。

 

香害の問題は当事者の切実さと非当事者の意識の乖離が激しく、なかなか伝わらないそうだ。「化学物質過敏症」という馴染みの少ない言葉を使うよりも単に「アレルギー」といったほうが伝わるという話しも。

 

見えにくいが、実際にはわりと少なからずの人が周りの人が使う柔軟剤などのニオイによって体調に影響があるが、自分がアレルギーであることをカミングアウトすることも難しく、個々の当事者は孤立しやすいようだ。一方、P&Gなどの製造企業は当事者の訴えに「非科学的だから相手にできない」という態度で話しあいの場にも参加しないという話をきく。

 

一回何かの企画をやろうという話になる。周囲の人に配れるような安全な日用品の購入場所や必要な配慮を簡単に記したものをつくったり、化学物質過敏症の人が孤立しないように相互の存在を目視できるようにワッペンみたいなものを作ってもいいのではないか、とか。化学物質過敏症の方が作っているクッキーなどもあるそうで、周りの人に話しにいく時はそれを持っていくのもいいのかもしれない。

 

自分が当事者でない個別具体的な問題に対しては一般になかなか興味がもたれないが、これをマイノリティがこのマジョリティの社会で非人間化された状況にあるととらえ、非人間化された状況を人間化していくでもあると考えると個々の具体的な事例や行動がそのままマジョリティとマイノリティという抽象的な問題を吟味し、認識を更新するまたとない機会にもなる。

 

非人間化されるとは文化以前の状況におかれることだと考える。文化以前の状況に文化を取り戻すことが、人間化されることであると思う。人間化とは別の言葉でいえば、応答していなかったものに応答するようになること。相互変容する主体になっていくこと。

 

応答的存在である人間にとって、孤立や隔絶は非倫理的状態であるだろう。だからその非人間化された状況にある人に対して、お互いが人間化される応答をしていく。ワッペンをつくるなどは、まずは当事者同士の仲間の確認、孤立意識の緩和というエンパワメントが必要であると思ったからだ。

 

まずは孤立からの解消、その上で次のアクションが派生する状況が育まれるだろう。理解がない人に対してどのように人間として向き合っていくかを一から考えていくことは、同時に非人間化された存在の人間化とはどういうことかを考えていくことだ。

 

様々な文化の定義があるだろうけれど、僕は非人間化された状況を人間化するものが文化であると考える。そして文化とはそのように自分と隔絶したところにあるのではないものだと思う。先の話の場で、藤原辰史『分解の哲学』のエピソードが紹介されていて、ナポリでは新車ではなく一旦壊れて自分が修理したものを価値あるものとみなすそうだが、文化を自分から離れたところに存在するものと思わされていることは、文化の疎外であり、人間の疎外であるだろう。

 

www.suntory.co.jp

 

企業がCMをバンバン流せばその分香料入りの日用品が売れるような思考の隷属的な現状を文化がある環境といえるだろうか。人は自律的な思考や判断や価値観を奪われて、単なる消費者として自分の認識を更新していく主体であることを奪われている。そしてそのことがより弱い存在を踏みにじる。やがてはその順番が自分にまわってくることも知らず。消費者とは消費する主体である以上に社会システムによって消費される客体なのだ。消費者などと気軽に規定され位置づけられるのは人間に対する蔑みであることに気づく必要がある。

 

イエルク・シュタイナーの絵本『うさぎの島』では食肉工場のうさぎたちが個々の隔絶したケージにいれられ、自分が今後どうなるかも知ることなく、疎外された「安心安全」を生きている。あるうさぎは仲間を連れ立ってこの工場から脱出するが、仲間はもはや工場の外に耐えきれず、工場に帰ってしまう。

 

www.ehonnavi.net

 

このうさぎたちは、現代人そのものだろう。用意されたもの以上に考えることを疎外された存在だ。どれだけ多様な商品が生まれようと、精神が家畜化され、非人間化された場所に文化があるだろうか。文化はそのような非人間された状況に対する反逆として一から自分たちで考えだされ、かたち作られていく必要がある。

 

診断名を一方的につけられ、生きるありようを決められるところから、苦労の名前を自分でつけ、主体性を取り戻していくものであった当事者研究は、当事者研究の専門家の一人によって性被害を世間から隠蔽するものとして悪用されてしまった。誰かの考えた枠組みに従うだけでは主体性は回復しない。思考の主体性は、世界と直接に応答関係をむすんでいくリハビリ抜きには取り戻されることはない。

 

繰り返される「人権派」組織内部の人権侵害。これらの問題を専門家にいつまでも任せて自分の考えるリハビリを放棄しているところに先の展開はない。お前はそれだけをして、それだけのことを考えていればいいのだ、と言われるだろう。しかしそれはケージにいれられたうさぎのままでいろということだ。脱うさぎ化していくことが、現代では人間化していくことであり、文化を取り戻していくことになるだろう。