降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

hanare×Social Kitchen 田中美帆「おどりが方向を変える時」へ

最寄りのカフェ、ソーシャルキッチンにてDIY読書会にもきてもらっていた田中美帆さんの個展「おどりが方向を変える時」がはじまったので行ってきました。

 

hanareproject.net


「おどり」は田中さんが飼育されている文鳥の名前でもあるとのこと。タイトルからは、他者である自律的なものへの田中さんの応答の姿勢や信頼が感じられる気がしました。

 

会場では膨大な数の日常の記録が展示されていました。それらはそれぞれの「時間」であるのだと思いました。時間とは生きて動いているプロセス、自律的なプロセスであると思っています。

 

たとえ自分であってもそれぞれの他者である自律的なプロセスを自分という既知のものに回収することは越権的なことであるし、そこにあったものの声を無いものにすることなのではないかと思います。

 

自分が書いたものを10年以上たってから読むことがありました。その時はっきり思ったのは、もはや自分はこの時の自分ではないということでした。当時の気持ちや状態を今の自分が理解することはできないし、そうすることは間違いであると思いました。そこにいるのは他人であり、それは今の自分に回収することで歪められ、矮小化されてしまうと思いました。

 

展示におけるそれぞれの記録がそれぞれの時間をもち、他者としての声を持っていると思いました。そしてそれらの声は、今の自分がそれらを都合のいい解釈でまとめることに異議を唱えていると思いました。

 

記録とは何なのか。アーカイブという言葉も最近聞くけれど何なのだろうか。

 

先日、知人がロマの建築をアーカイブとしてみるという発表をしていたので行ってきました。ロマの人々(と言っても様々な人たちがいて一括りにはできないのですが。)は定住せず、移動を主としており、そのために深刻な迫害や差別を受けてきました。そのロマの人たちが家の全面だけ豪華な家を建てていたりとか、家としての持続を目的としていないような、奇妙な家を建てているということでした。

 

移動を主体とする狩猟採集民的な感性と定住を前提する農耕民的な感性が混ざり合った奇妙な表現。同じ家に色々な文化がごった混ぜだったりする豪華な家は、ステータスの顕示といった面があるそうです。そして彼らに共通する部分は、苛烈な人間性の侵害を受けた経験があることだったとか。

 

当時は強制労働はもとより、子どもに親を強姦させる強要をしたりするなど、聞くに堪えない非人間的暴虐を受けてきた彼らが、その反動として、持続的側面を前提としていない豪華な建築という「花火」をあげているのではないかと思いました。発表者のまとめとは違うかもしれませんが、僕はこれは彼らの弾圧のアーカイブなのだと思いました。

 

僕がアーカイブという言葉がよくわからなかったのは、都合の悪いことはなかったことにする国のような現秩序にとって、都合の悪い情報が排除された「正しい歴史」として歴史が一貫性を持って残されるよりはマシであっても、結局は力をもった「有識者」や「専門家」が主体となり、整理して保存や記録がされるのなら、人々はまた、フレイレのいう沈黙の文化の享受者として、正しい解釈を受動的に取り込むことになってしまうのではないかと思ったからです。人が学び、人間になっていくにあたって重要なことは、自分で考え、感じて、自分として世界に対し必要な応答をしていくことであるのに。

 

権力は単体において健全性を維持できないということで、国における三権分立がありますが、一つの組織や業界自体にはその権力の健全性を保つ力はないのだと思えます。いや、そうではないと多くの人が言うのかもしれませんが、みている限りではやっぱりなさそうにみえます。(そこにも近代の「自立した個人」という神話が働いているような気がしますが。)

 

ともあれ、その研究会の後、アーカイブについて周りの人と話したりして、腑に落ちたことがありました。僕が想定していた、専門家や有識者(とその業界の権益の維持拡張)によって歴史が整理され提示されるものではないアーカイブです。

 

これはもちろん自分のなかで勝手にそういう思考の過程があったということで、そういうことはもう常識として議論されて終わっているのかもしれませんが。

 

ロマの発表のなかで、発表者のフィールドワーク中のエピソードにとても深い示唆をくれるものがありました。

 

あるロマの人に先祖のことをたずねたとき、その人は地面に石を置いて先祖を思い出して語ってくれたそうです。系統図を逆からたどるように、自分の親がいて、その兄弟がいて、またその親がいてというふうに、一人一人の場所に石を置いていきます。そうすることによって、連鎖的に記憶がたどれるのですね。

 

一つの石を置くことによって、その石の周辺の記憶が戻ってきます。逆からみると、石を置く前の日常ではその記憶は想起されません。仏壇が日常にあって常に死者が想起される暮らしとは違う、「打算と記憶を拒絶する(グレーバー)」狩猟採集民的な心理世界がありそうです。日常では死者は想起されないのです。石によって想起の位相が変えられ、それでようやく記憶にアクセスできるのです。

 

(もちろんどちらがいいかという話しではないですが、農耕民が安定への強迫に苛まれる必然のもとに暮らしているのに比較すると、狩猟採集民は明日への強迫を無化することにたけた文化をもっているようです。)

 

僕は自分にとって腑に落ちるアーカイブとは一つ一つ置かれていくこの石のようなものだと思いました。一つ一つの石は、記憶を立ち上がらせる「場」でもあります。場を立ち上がらせる力、場にアクセスできる力がそれぞれの人にシェアされていることが、多くの人を誰かにとって都合のいい、ひとまとまりの「大衆」にされないことにつながると思うのです。

 

場を立ち上がらせる力、場にアクセスできる力を奪われた人はあたかも収容所に閉じ込められたように、自分を無力に感じ、周りの圧力に弱くなります。自分で考える力、状況を更新していく力を奪われ、強いものに頭も体も降伏してしまいます。

 

一方で、閉じた価値観に支配されている場、収容所のような環境におかれても、場の力を立ち上がらせる手がかりをもっているならば、その人は身も心も強いものの価値観に支配されてしまうことに抗うことができるのだと思います。

 

そして社会という外的な環境だけでなく、自分という内的な環境があります。内的な環境においても、外の社会と同じような力が働いています。自分の底にある深い痛みや苦しみを感じないように、自分を無感覚にしていこうとする力です。

 

自分とはこういうものだと割り切り、信じこんでしまえば、自分という感性の更新および自他への応答性と引き換えに、感じたくないことに対して無思考で無感覚になれる強い殻を身につけることができます。

 

誰しもが生きるために殻を強く厚くしていくのは仕方のないことでもあります。しかし、そんな「修羅」の世界においても、なお無感覚の殻に自分を包むことに反逆している人たちもいるように思います。

 

自分が自分であった場所に戻ってこれるように、その人たちはロマのように「石」をおいているのだと思います。その「石」はそれを置いた人たちだけではなく、(もしその人が戻ることを求めるならば)誰にとっても元に戻るための手がかりになるものです。お金をもらうわけでもなく、世界に「石」を置いている人たちがいます。

 

田中さんが書かれた文章に、「あらゆる資料を均質にアーカイブするのではなくて、自分が必要な時に必要な解像度・かたちで引き出せるようにアーカイブする」というくだりがありました。深く納得しました。まさにそのことが重要なのだと思いました。

 

自分だけでは何を考えようとも新しいものを見つけることはできないといつも実感します。自分以外の誰かがその人の感性でとらえ、表現したことを受け取って、ようやく終わらないメリーゴーランドのように閉じた風景しか見れない自分から出られる手がかりがもらえます。

 

展示されていたものは、田中さんが田中さんとして生き残るための数えきれない試行であり、それは同時に自分自身でその試行をすることが叶わなかった人たちの代わりに「償われたもの」ともいえるのではないかと思います。一つになっていこうとする「歴史」に対して、たわいもなく消えていくはずだったそれぞれの声はそれを簡単には許さない力をもっていました。それぞれの声が場を立ち上げたとき、そこには今まで現れなかった新しい流れが生まれてくるように思います。