降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

プリズン・サークルとラップのワークショップ 心と表現の連動 乖離を埋めていくもの

プリズン・サークルの坂上香監督がラップのワークショップについて公開投稿されていました。

 

www.facebook.com

 

3/8、プリズン・サークル x ラップワークショップ@横浜黄金町から、感動醒めやらず。昨晩は、ラップで、しかも初対面の人ばかりでサンクチュアリを作れた感あり。ラップ聞いたことない人から、ラップ体験者まで、中学生〜72歳の老若男女、様々なアイデンティティや背景を持つ20人によるラップとその共有を通して。言葉とリズムでなんとかやり抜く、その姿勢が面白い。ブースから溢れ聴こえる参加者のラップに鼓舞され、心が激しく揺れ、涙が溢れる。えいやっとブースに入って自分の書いたラップを読み始めたら、自然にヒートアップ。ラッパーのFuniさん、褒め上手。ラッパー証書をもらって、皆一人前のラッパーに。証書にあるillは病気という意味だけど、逆手にとって、カッコいいの意味。第二弾やろうと参加者たちから声あがる。またどこかでYeah〜! PSそれにしても映画館の下の階にイベントスペース(ArtLabOva)があるって理想的。トークバック 時のTシャツワークショップに続いて第2段だったのだけれど、映画を見た後に直行できて、皆の顔が見えて、焼き立てのポンデケージョやソーセージも巡回販売されて(おいしかった!)、ちゃんと換気もされていて、最高の環境。

 

 

 

 

3年続いているDIY読書会では、それぞれの人が勝手に自分の発表したいことや本を持ち寄って発表しています。この会が続いていくなかで人にも伝えたいと思うことは、その人が一番面白いと思っていること、自分の状態がまさにその探究の過程にあることは、周りの人にとっても面白いということです。

 

僕は、知識や経験やステータスなど関係なく、その人が何よりも深く関心をもってそこに向かうとき、その人は「時代をこえた存在」になっていると思います。どこかの知識人やオピニオンリーダーが新しい考え方や「事実」を発見して紹介しないと一般の人の思考や認識は更新されないのではないと感じています。時代の古い捉え方をこえるものは、その人が自分でもわからない動機によって動かされるているときの、その「状態」から生まれてきているように思えます。

 

そのように思うようになって、ではなぜ新しいものが個々人から生まれているのに、世間の変化はまるで時間が止まったように遅々としているようなのかと考えます。個々で生まれたものが世間の認識にあまり影響しないまま泡のようにただ消えていくのはなぜなのか。そして、どのようなあり方がその状況を変えうるのかを考えています。

 

映画プリズン・サークルのなかでは、幼少期から言葉に尽くせぬ苦しい環境に置かれ、やがて大人になり罪を犯した受刑者たちの回復の過程が描かれています。

 

自分ではもはや抱えきれない苦しみを与えられた人は、自分の感じる心を乖離させることによって、そしてその乖離を維持することによって生き延びようとする状態になってしまいます。この乖離は自動的であり、本人の意図的操作によるものではありません。ですので、本人は自分がなぜ今の自分のような状態になっているのかはわからないのです。

 

心理的・身体的に安全な場を保証され、自分の感じていることを表現することをだんだんに繰り返すことで、自分の心と自分の思考の乖離は埋まっていきます。すると、その人のなかに、自分でも知らなかった新しい感情や状態が生まれてきます。その感情や状態にまた応答していくことによって、回復はすすんでいきます。

 

そして回復がすすんだとき、その人はなぜ自分がかつてのようだったのか、自分の状態がどのような状態であるのかが、ようやくに実感し、認識できるようになるのです。

 

ただこの過程は受刑者のみにあてはまることではないと思います。僕の認識では、この社会の一般の人はそのような心理的な安全と感じる場所をもっておらず、受刑者が自分の状態を知らないように、「自分以前」にされていることにも気づけないままに社会から放置されていると思います。

 

その人の時間を止め、その人を「その人以前」の状態にし、本来変わっていくものを「昔のまま」の状態にとどめるのは、乖離の結果によるようです。周りの環境が心理的に危険だと感じるならば、その人の自然な気持ちは自動的に抑圧され、乖離状態は維持されるか、あるいは進んでしまうことさえあると思います。

 

自分が安全だと感じられる場で、自分の気持ち、感じていることを周りの人に表現することは、自分の心に対して応答することです。そのことによって心は息吹を回復させます。その息吹、心の呼吸に必要なことをまた自分に与えること(それがつまり応答ということになります。)によって、心の呼吸は力強くなり、よって自律的になっていきます。これが乖離からの回復です。乖離からの回復とは生きたものとしての心の呼吸を回復させることです。

 

では、心の呼吸をより回復していくために重要なことは何でしょうか。それは心の動きのありようによりフィットした表現の媒体であると思います。

 

今日、自分のシェアハウスの大家さんと話していて、宮城県大崎市では「話しあい」というキーワードが市民の間から生まれており、そこでは条文なども書き言葉ではなく、話し言葉で書かれるようになったと聞きました。この書き言葉から話し言葉への変化は、まさに心と思考の乖離を埋めていくことの重要性を市民が理解していることを示すものだと思いました。

 

書き言葉には書き言葉の良さがありますが、心や気持ちがその言葉の上にのりにくいところがあります。別の言い方をすれば、書き言葉とは生きている自分の状態とより距離をとる言葉であるのだと思います。しかし、自分の心や状態と距離をとることは、同時にその書かれているもの自体との心理的距離をひろげます。自分ではないもの、自分と関わりのないようなものとして感じてしまうのです。

 

一方、自分の気持ちと表現を連動させることは、周りの人や社会に対する感じ方を変えます。周りの人や社会はより自分に近しいものとして感じられ、そこに自分が関われるものとして感じられます。また単に自分以外の対象に近しさを感じるというだけではなく、そこにおいて自分自身の時間が動き、自分が変わっていくのです。

 

書き言葉を話し言葉に変えるように、たとえば同じ言葉を発することにおいても、詩というかたち、朗読というかたち、歌というかたちでも違います。

 

しかし多くの「一般の人」は朗読したり、自分で詩を書いて発表したり、自分の歌を作ったりしません。それらは多くの場合、専門家やプロのものであり、素人が「上手」でないものを作るとバカにされてしまいます。(もし未来の社会があれば、このようなことは昔の社会の文化度の低さ、未成熟の典型例とみなされるんじゃないかなと思いますが。)

 

パウロフレイレは、多くの人が主体を奪われ、受動的な観客にされてしまう文化を沈黙の文化とよんでいます。この社会はいまだに沈黙の文化に呑み込まれているのだと思いますが、この沈黙の文化の何よりもの人間疎外(人間をダメにしてまうこと)は、人々が自由に自分にフィットした表現媒体をつかって、自分と世界の関係性を変え、自分自身の時間を動かしていくことを止めることだと思います。

人々のなかから生まれてきた表現形態があっという間に「プロ」に囲い込まれ、人々のものとしての表現形態から奪われることは非常に大きな問題です。なぜならそのことによって、人々の思考の更新は止まり、自分の感じ方を更新していく心の呼吸も抑えられてしまうからです。

 

しかし、心ある人たちによって、「プロ」のもの、「専門家」のものとして存在しているものや、現在進行形で囲い込まれていく表現を人々にとりもどす動きもあるようです。ラップのことはあまり知らないのですが、既存の囲い込まれた形式の歌や音楽を、自分たちに取り戻したところからはじまっているところが強くある分野なのだろうなと思います。

 

歌と朗読の中間のような、メロディーを作らなくていいようなところ、
普通の人の感性を言葉として表現できるところなど、それまでにあった音楽の形式のハードルを壊して、今まで社会から表現をする場を持たせてもらえなかった人たちの舞台をひろげているのだと思います。

 

表現が専門家やプロだけのものとされ、人々の表現が貶められ、人々が自律的な主体となっていくことが止められる「沈黙の文化」の社会において、人々が本来的に持っていた自分の力や人間性を回復していくときに必要なことは、自分の心と表現を連動させていくことだと思います。

 

そして、自分の心と表現を連動させていくにあたって非常に重要なことは、より自分にフィットし、心が呼吸をはじめる表現媒体を用いることだと思います。人々の間から生まれたものが囲い込みをされ、人々から奪われていく社会のなかで、私たちができることは、心と表現を連動させる媒体を一つでも多く自分たちに取り戻し、あるいはラップが発明されたように、自由に、直接につくりだしていくことであると思います。

 

自分の時間や社会の時間を止めている乖離を埋めていくこと。そのために自分の心と表現を直接に連動させること。そのためにフィットした表現媒体を選び、あるいはつくりだしていくこと。このことによって、力や自信を失っていた人々は、本来の力を取り戻していくことができるのではないでしょうか。

 

そしてそれに付け加えるなら、大きな社会を一斉に変えようとすることができなくても、自分たちでちいさな活動の場、表現の場をつくることができます。そんなものに意味はない、結局は社会を変えないと言う人もいるかもしれませんが、ちいさなサークルのなかで、人が自分を取り戻たり、回復していくなら、数ではなく、その変容の「質」が周りの人を変えていくように思います。

 

人間的な、応答的な環境をもつちいさなサークルのなかで進む時間は、世間の時間とは進み方も違い、その時間の質も違います。大きな仕組みをすぐに変えられないことで諦める必要はないと思います。大きな仕組みや社会の変化は、個々人の質的な変容と関わっていると思います。大きな力の動き、時代の流れは、人が意図して直接に行使されるものであるよりも、派生的に生まれてきたものであることが多いのではないかと思います。