降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

2/2 南区DIY読書会 プレ発表:生きることの当事者研究 原稿

 

◇なぜ「生きることの当事者研究」か?

「苦労の社会化」が環境を新生させる
 当事者研究は、べてるの家からはじまったもので、専門家に解決を委ねていた自分の「苦労」の仕組みを自分自身で「研究」し、それを周りにシェアするものです。そこでは個人のものとして閉ざされていた「苦労」が周りの人たちに伝わり、発表者は周りの人にとって異質で理解不能な存在であり、わたしの世界の外にいた存在だったところから、わたしの世界の一員、わたしの隣人になっていきます。当事者研究では、そのような「苦労の社会化」のプロセスを通して、個人とその周囲の人の認識が共に更新され、有機的な新しい関係性が派生していきます。当事者研究は当初は精神障害者が中心だったところから、時がたつにつれ、福祉の支援者の当事者研究が生まれたり、子どもの当事者研究なども行われたりもしています。

個人が適応することが求められる「社会」の側ははたして本当に健全なのか
 さて、当事者研究がだんだんと様々な分野において行われるようになったことは素晴らしいことだと思うのですが、僕個人としては、個々の当事者研究が各々の分野に限定されるだけでは足りないのではないかという問題意識があります。既存の精神医療から個々の人たちが奪われた主体性を取り戻していった結果、回復がおこったとしても、次は金銭収入を得るための仕事の話しなり、より「社会適応」していくなりが求められてきます。しかし、その社会自体がいびつであったならば、「社会適応」とはなんなのでしょうか。社会のほとんどの場所で(たとえば国連などであっても。)、強いものが自分の権益を維持したり拡大するためのパワーゲームに明け暮れており、そのパワーゲームが社会を動かしています。一方、市井の人々は良心的かというと、地域では保育園や薬物依存症者の回復施設に反対運動がおこるほど、市民の矜持のようなものは最近にちかづくにつれ、より融解していっています。

一分野のなかに収まる「当事者研究」では足りない
 このような状況において、単に「社会適応」が難しい「自分の苦労」だけを問うだけでは足りないのではないかと思うのです。そうでないと、精神医療の支配の枠組みから個人が主体性を取り戻したとしても、それよりややマシなだけの、別の支配の枠組みに入れられて生を送るだけなのではないでしょうか。なぜ社会がこのようになっているのか、そもそも生きることとはどういうことなのかの理解を、それが得意な「専門家」にまかせていた結果が、現在の社会を構成し、人々をより非応答的存在にしていったのではないでしょうか。

当事者研究として、生きることにかかわる全て(世界)と自分との切れたつながりをもどす
 しかし、その問題意識があっても、僕は大学の研究者として、膨大な資料を扱えるほど能力も体力もありません。しかも大学の研究者は、まともな人なら自分の一分野だけで定年までかかりっきりにならなければならないほどのようなので、自分の必要にはあいません。100年後の社会を変えていくためではなく、自分の今の生を変えていくため、既存の社会制度に生きることを支配されている状況から逸脱し、自分の生を取り戻していく探究が自分には必要なのです。アカデミズムではないあり方で、世界や社会、人間、回復とは何かを探っていくことを、生きることの当事者研究と呼べないかと思います。生きることの当事者研究を通して、人は社会によって内面化された古い秩序を更新し、この社会という沼の下から頭一つ抜けだして世界の風景を自分でみることができるのではないでしょうか。

必要な逸脱を成し遂げていくものとしての「野生の思考」  
 生きることの当事者研究の目的は、別に万人が一斉に勉強する(それ自体がいびつですが、)教科書を作ることでも、普遍的真実を理解するためでもありません。生きることの当事者研究の意義は、自分のわかる範囲で自分がそうだと思っている世界の認識を更新していくことです。宇宙のことなど自分にはわからない、外国のことなど、資本主義のことなど自分にはわからない、専門家に教えを乞わなければならないとあらかじめ排除するのではなく、まずは自分の知っていることで世界とはこういうものではないかと再認識したうえで探究をはじめ、より実際に即した世界観に更新していくために、宇宙だろうが経済だろうが、触れれるもの取り入れられるものは何でも使っていくのです。夭折したSF作家伊藤計劃のように、何の専門家でなくても、メディアの発達によって世界の様々な情報や事例を得られるようになった現在においては、個人は既存の社会から押しつけられたものではない思想を練り上げていくことができるように思います。それは文化人類学レヴィ=ストロースなら「野生の思考」とよぶものかと思います。人々は、「教育水準」の高い国々の人から教えてもらったり、本を寄付してもらわなくても、自分たちの周りのあり合わせの情報や体験、思想を自分なりに組み合わせ、コラージュしていくことで、自分自身の認識の枠組みを更新し、生きていく必要に応じて、時代をこえた思考をすることができるのだと思います。


◇生きることの当事者研究 発表
今がどんな社会なのか。そのなかで何がおこっているのか。
 資本主義経済が世界各地でやったことは自給経済の破壊でした。それぞれの場で成り立っていた暮らしを成り立たなくさせ、お金に依存させます。そして自分たちで生きていく力を奪って、搾取的な仕事に従事させるのです。それぞれの自給経済においては、人々はエネルギー、食物、水、周りの自然環境など、それぞれの人が関わりをもち、調整をする存在でした。それはいわば、人々は自分の生きる世界のすべてに対して応答する存在だったのです。お金を一手に集中させ、富と権力を得ようとする人たちにとっては、そのように人々が自分の生きること全体に関わり、調整し、応答する(そのことによって人々は意識的でなくても、結果的に自分の主体性と世界との応答性を保っていたのです。)社会は不都合でした。彼らにとって社会は、様々な場所から自分という一箇所にお金が集まってくるように、再構成され、画一化されるべきものだったのです。

内面化した抑圧という問題
 それならば人々が集まってそのような体制を打開すればいいではないかと思われるかもしれませんがなかなかそのようにはいかないのです。パウロフレイレは、抑圧者(人々を支配し搾取する権力者)と被抑圧者についての分析を行なっていますが、抑圧されている人は単に肉体的に抑圧されているだけでなく、抑圧者の価値観を自分自身に内面化しており、そのままでは自分が権力者に成りかわろうとするだけだったり、権力者が持っているものを自分個人が欲しがるだけなのです。フレイレは、自分が埋没している世界を一旦距離をとって再認識し、自分自身の抑圧状況を認め、そこから解放されることが必要であると指摘してます。内面化した抑圧から解放されることが必要なのです。それは一斉教育で教えこめるようなことではなく、一人一人が自分の解放を行なっていくことが必要です。

得られた知見や実践が蓄積されず消えていく
 フレイレは独自の識字教育や人々が自らが暮らす世界をフィールドワークすることなどを通して、人々に内面化された抑圧を解放する取り組みを行い、多くの知見を残しましたが、僕はフレイレの分析をここ3、4年ぐらいで知り、大変驚きました。何に驚いたかというと、抑圧の内面化などの50年前のフレイレの知見の蓄積は自分の周りでは全く共有されていないし、ネットなどSNS上においてもまるで踏まえられていないのです。三途の川に賽の河原というのがありますが、そこでは石を積んでも積んでも石が崩れてしまうのです。あたかも賽の河原のように、せっかく分析された知見がまるでなかったようになっており、それでまた一から昔に議論されたことを議論しはじめたりしているのです。

 まるで馬鹿げた状況です。僕はそれまでこう思っていました。昔に発見されたことは国とか大学とかには踏まえられ、その上に積み上げられてくるものだと。しかし、実際は、抑圧の内面化が問題であり、それをどう解放していくかなどという視点を持った人、実践をしている人が僕には見当たらないのです。社会では、発見されたことなどなかったことにされているのです。それはフレイレだけでなく、林竹二など教育の実践者などにおいても同様でした。資料としては残っていても、実践としては蓄積はほぼ皆無であり、むしろ当時より後退しているような現状なのです。自分が今の状況から逸脱していこうと思うなら、どこかで教わるのではなく、自分がどこかに探しにいき、調べて見つけていくしかないのでしょう。

 ネット用語ではフィルターバブルという言葉があります。検索エンジンで検索すれば世界の様々な情報が集まるように思えて、実際は複数検索されたものや個人情報などから、アルゴリズムが勝手に僕が見たい情報を選んで表示しているので、いわば自分の外側の観点のものに触れられず、泡の中に閉じ込められるように自分は孤立し、自分の外にあるものに触れる機会をあらかじめ奪われているのです。ネットでもそうですが、蓄積された知見がなかったことにされる賽の河原現象がおこる理由は、オフラインの社会でもそのようなことがおこっているのかと推測するしかありませんでした。

パワーゲームとしての実態を持っている社会
 なぜ発見された知見は無視されたり、なかったもののようにされているのか。たとえば北欧では薬物依存症者を罰しないことで回復がはやまるのでそのような実践がされていますが、日本ではそれは全然されていません。知識人は知っていても、社会には反映されないのです。正しいことだからやったらいい、では社会は変わらないようです。その理由が個々人が既得権益のパワーゲームをやっているのがこの社会だからというところにあるように思えます。どんな正しいことでも、自分のパワーゲームに不利ならば、強いものは受け入れないのです。ドラえもんジャイアンのような存在がいれば、人の声を打ち消す声の大きい人がいれば、環境は昔と変わらないばかりか、もっと後退的にもなるのです。人権という概念が昔からあるからといって、ブラック企業がなくなるわけでも、この先生まれないわけでもないのです。世界経済フォーラムの調査では、日本の男女格差は2017年の調査では良いほうから114位であり、その結果はその前の調査の103位よりなお落ちています。

 この調査に偏りがあったり、この調査一つだけでは何も言えない(だから批判するな、お前のような素人が意見するな、というなら、事実上みんなが考えることを誰かにまかせ、現状を追認し、あと回しにするだけですよね。)のかもしれませんが、実感レベル、自分の周りを見たり聞いたりしただけでもう十分だと思うのです。専門家でないと意見を言ってはいけないというのは、今ある抑圧に申し立てする人を黙らせるのに良く使われる抑圧です。人は自分で考え、確かめ、そして認識や感覚を更新していかなければどんどんと無思考無批判になり、不満だけためて非応答的存在になっていくのですから、個人が考えることに意味がないというふうな働きかけは環境全体を腐敗させるものです。また、「専門家のモラル」や「確かな情報しか伝えない」として、自分は専門外のことには意見しないというのも、自分が現在のポジションで高をくくれるから社会の抑圧状況を無視できるからやっているわけで、あたかも知らないことは言わないと責任ある態度のように表明されますが、保身に汲々としているだけなのに、と思ってしまいます。

パワーゲームにのらないものは相手にされない
 専門家が社会を支配する制度の批判については、イヴァン・イリイチが詳細に行なっています。しかし、イリイチがこういっているとか、ネット上でもまるで議論になったりしていません。イリイチフレイレも、テストに出るような、何をやったかどんなことを言ったかは触れられていても、議論されるべきようなものとして取り上げられることはなく、放っておかれています。実際のところどうなっているかはわかりませんが、現実の体制を抜本的に更新するような提案や意見、議論などは無視され、現状の抑圧やいびつさは前提の上で、手軽に取り入れられる改善策、うまくやる方法などもてはやされます。推測するに、これもまたパワーゲームの結果なのだと思います。国であれ大学機関であれ、そこで行われているのはパワーゲームなのであり、良心的な、人間的なものがイレギュラーとしてあるけれど、それはあくまで傍流であり、減衰していくものであり、強いものから分け前をどれだけ得るかが問題なのであり、パワーゲームと関係ないこと(つまりそれに関わるだけで事実上のマイナス)に意識をむける気はよっぽどの変人か被抑圧者でない限りしないのではないかと思います。

◇言葉をもった人間とはどういうものか
 以下も、全くの当事者研究です。
精神
 まず身体に血管がはりめぐらされ、そこで新陳代謝(更新)が行われているように、精神もまたチューブのようなものであり、そこに気が流れていると考えてみます。気はスピリチュアルなものというよりは、日常語で「気詰まり」「気まずさ」「気持ちよさ」「気のせい」などといわれるもので、ざっくりとらえて心理的な感覚をともなうものとします。「気詰まり」という言葉においては、詰まったりするのですから、流れていることが前提されています。身体に置いて血行がよい状態がいいように、精神においても気の流れる通路のなかにその流れを阻害する異物がないほうがいいわけです。そして人間は精神においてその異物が最小化される状態=気の流れが最大化する状態を求めていると思われます。そして、異物の最たるものが「言葉」であるのだと思われます。

精神と言葉
 通っている整体で「精神は忘却の過程である」という言葉に出会いました。そこにおいて身体化したものは忘却されるようです。精神は忘却を求めていると言い換えられるかと思います。僕の解釈ですが、精神にとって重要なのは気の流れの最適性化であり、そこには言葉さえ不要であると思います。プロメテウスの神話において、火(意識=言葉という鏡に写ったものをとらえるもの)の獲得の結果、プロメテウスの岩山にはりつけられ、毎日内臓をワシに食べられます。内臓は毎日復活するので、プロメテウスは助けられるまでは永劫の苦しみをうるわけです。これが言葉をもつことの代償であると考えます。古代の中国語を研究している安田登さんは心とは過去と未来を持つことだと言います。それまで過去と未来を持たなかった人は、毎年王朝に人の生贄を捧げなければいけないのに、逃げてしまったりしなかったそうです。言葉は、それまで精神にとって存在しなかった「明日」を作りだしました。言葉の獲得によって、人間は明日(ずっと先の未来)の準備ができるようになったと同時に、「明日」におこりうるかもしれない仮定としての苦しみに永遠に強迫される存在になってしまったのです。言葉とは記憶であり、過去です。言葉によって映される仮定の世界、実際は記憶に閉ざされた世界を本物の世界だと人間には感じられます。人間はまだ来ていない明日を苦しむ存在です(読書会でもやったプナンの人たちの文化はその言葉の作用を意図的に打ち消す文化を持っているととらえています)。

 精神にとって、言葉はもう一つの業苦(ワシに毎日内臓を啄ばまれる)をもたらすことは、この広大な世界における卑小な自分の意味を規定されてしまうことであるのではないかと思います。自分を規定されることは、何にも規定されずとらわれていなかった精神にとって屈辱以外のなんでもないのではないかと考えます。そのため、人間が自分をより高い意味、価値あるものに高めようとするのはやりたくてやっているように思えて、実態は低められた価値を回復しようとする反動であり、磊落した自己を代替的に元に戻そうとする行為であるのかと思います。

 言葉とは、時間の止まった過去の世界に自分を投げ込むものであり、どうしようもない明日への強迫、精神が自己規定されるという屈辱をもたらすものであり、人間は生涯をかけてその不本意な状況を改善しようとするようです。自分が何かを達成したり、認められた存在になろうとするのは言葉の世界に閉じ込められた状態にいながら自分のステイタスをマシにしようとする試行なのだと思います。

鶴見俊輔の親問題 根源的な苦しみと逆境を自分として生きる力
 なお、物心がついた自意識にとっての最も大きな傷や脆弱性ととらえられたものは、根源的な苦しみとなって意識下に沈み、生涯にわたって自意識に影響を与え続けるようです。鶴見俊輔は親問題という言葉をつかって、人が生きるとは何かとか、自分の意味とは何かなど、根源的な問題に向き合い、その結果として世界に新しいものを生み出す人とと、環境に埋没し抑圧的な秩序に加担する人の違いを、親問題に向き合っているのか、場当たり的な適応である子問題に邁進しているのかという違いを提示しています。

 根源的な苦しみは、ネガティブな印象とは逆に、自意識の実感としては充実をもたらす源泉として機能します。ライフワークとして成り立つようなこと、あるいは苦しい環境の中でも自分として生きる力はこの根源的な苦しみに対する生体の自動的な反発によって生まれているのではないかと考えています。

 人間がなぜ親問題に向き合わず、子問題(場当たりの適応)に邁進するのかということは、殻という概念を想定して考えています。時間がなくなり、続きは2/9の発表で・・・・。