降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

11/20ワーキンググループをふりかえる

今日行われたワーキンググループで考えたこと。

 

1 べてぶくろ、近代、社会運動内部において繰り返される人権侵害、当事者からの経験の簒奪などについて

→ 浦河べてるの家の存在から自分自身は多くを得た。しかし性暴力被害の隠蔽に当事者研究を使い、被害当事者や自らのあり方の再吟味に向かいあわない姿勢に大きな疑問と失望を感じた。当事者が制度に奪われた主体を取り戻していくのが当事者研究だったはずだが、主体を持っているのは「リーダー」たちであり、当事者たちは受動的に「リーダー」たちの作った枠組みに従っていたり、従わされているのだった。誰かに作られたものを繰り返すのではなく、思考の主体性、自律性を取り戻していかないのならば、主体はいつまでも「管理者」たちに奪われたままだということだろう。

べてるの家関連の大会に参加したとき、自分たちのマイノリティ性にはやさしいけれど、女性蔑視や異性愛主義、学歴差別などに関してはむしろ一般と同程度かそれ以上にひどい水準ではないかと思ったことがあった。その抑圧によって、場にいれなくなった人たち、排除されていった人たちがいるだろうと思った。「責任」を曖昧にすることが個人が回復していくにあたって有効であるとしても、そのあり方は本当に新しかったのだろうか? 人権意識の低さが顕著で、既存の差別構造へ向き合う意識は見当たらない。そこは個人の自律性や人権意識がまだない前近代の「大家族」だったのではないか。「大家族」が主体であり、目的であり、幸せの根源であるので、そこでの個々人は「大家族」に同調し、恭順することが当たり前なのだ。向谷地親子やべてぶくろスタッフRの被害者への言動は、被害者の「大家族」への恭順の正しさをまるで疑っていないところから発せられていると感じる。

 

だが「大家族」への回帰、前近代への回帰は本当に救いなのだろうか? 精神障害をのぞいた既存の抑圧や差別が大手をふってまかりとおるところで、社会関係の不均衡を問わないところで、人が人間らしくなっていけるだろうか。まるでそうは思えない。

 

個々人は前近代への回帰や「大家族」への回帰ではなく、現社会のいびつな権力勾配、社会関係の不均衡を問い、既存の社会に同化した自身と環境を更新していく主体であるところに本来の生が取り戻されるのではないだろうか。

 

また当事者研究は講座として企業に販売されるものになった。当事者研究は誰のものか?当事者研究の理念は誰のものか? 「リーダー」たちにとってそれは自分たちのものなのだろう。だから自由に売れるのだ。それはあまりに当たり前なのだろう。当事者の経験の簒奪だという意識が生まれないほどに。

 

「リーダー」たちが主体化するとき、当事者たちは単なる資源になり、背景として受動化する。奪われた主体はどのように取り戻されるのか。まずは当事者たちがこの問題において、「リーダー」たちに所有されてしまった理念を自分たちで再定義し、提示していくことにあるのではないかと思う。医療に決定された病名を自己病名に変えていったように、「リーダー」たちのものになり流れる血を失った理念に対して、自分たちの血の通った理念を再定義すること。

 

そしてその理念は「リーダー」たちに再び主体を奪われてしまわないために吟味され、更新されたものとして作り出される必要がある。それは自分もまた「リーダー」のようになって同じことを繰り返さないために、自らを問うための理念でもあるだろう。

 

理念はいとも簡単に形骸化され、「リーダー」たちに所有されて管理や抑圧、利権の強化に使われる。だから理念には人間が欺瞞的存在であることが前提され、その欺瞞の肥大にあらかじめ釘をさすものが必要だろう。自分が「正しい」立場であるというように解釈できるような理念はあらかじめ排除される。

 

社会における他者の問題のなかに自らの問題をみつけ、その問題に対して応答していくことによって、非人間たる自分は人間化していく。フレイレは人間の本質を変化のプロセスそのものにおいた。以下は僕の考えだが、人はもともと非人間であり、自身のマイノリティ性に応答しているとき(それは社会主体として生きているということだ。)だけ変化の過程にあり、人間化していると考えるべきだろう。真っ当である時のほうが少ないかもしれない。実態として正しさに胡座をかいていたり、自分を無自覚に正しいものと位置づけているならばその時点で人間として間違いなのだ。「正しさ」や「いいこと」を背景にして抑圧に無自覚になり人権侵害を繰り返す様々な場所の「リーダー」たちからは、まずその「正しさ」や「いいこと」という羊の皮を剥ぐナイフが必要だろう。そしてそのナイフは個々人それぞれによって思案され、作り出されていく必要がある。

  

自らのあり方と乖離しない理念づくりの主体、何が向かうべき方向なのかを自らイメージし、それを社会環境に提示する主体、自律的に思考する主体、組織や「大家族」のなかで個の自律性や尊厳を実質的に放棄させられている個人が自律性や尊厳とはなんであるのかを自ら探り確かめるなかで、個人としての自分を形成していく主体が取り戻されていくことが必要だろう。

 

 

2「ワーキンググループ」がどのようなものであったらいいか。

 

→ワーキンググループは自分に必要なことをやる場であり、同時に学びの場であるという設定にする。両者のバランスが崩れると「やるべきこと」の強制がされたり、自由に物事が考えられなくなりやすいと思う。「自分なんでこれやってるんだろう」、しかし「やらなければならない」としまうと、もうそこに自分のプロセスは動いていない。加えて学びにとって重要なことは、お互いが探究的であり、お互いの学びのプロセスが自然と動くように、お互いに尊厳を提供しあうやりとりであると思う。

 

→やりたいことの呼びかけは気軽に行われていいし、自分の余裕次第で複数を同時並行的にやっても構わない。

 ex. 破れた着物の繕いをしなくてはならないがなかなか一人ではやる気がおきない。この指とまれでちくちく系話しの場(おやつを食べる場でもよい)有志を募る。格式ばった内容の学びである必要はない。むしろ自分が一人でやっていては停滞してしまうようなことを積極的に「社会化」する。

 ex. メッセンジャーでのやりとりをきっかけに、日曜日に学びについてのワーキンググループを3人ぐらいでやることになった。ワーキンググループは臨機応変に、即興的に行われていい。

 

→あるワーキンググループは定期的に行われてもよいし、一回限りで終わるものでもよい。重要なことは、自分におこっているプロセスが動いていくかどうか、自分の「時間」が動いていくかどうかであり、そこにそぐわないと思えばすぐに解散できることにあらかじめしておくと余計な停滞がおきにくい。学びにおいて重要なのは自分のプロセスにフィットしているかどうか。

 

→ワーキンググループを行うにあたって、自分が最低限そこで何を得られるか、何ができるかはあらかじめ考えておく。先述の繕いのグループなら、全部はできなくても袖の部分だけは繕い終わるなどと考えておく。趣旨を曖昧にすると、やった時は高揚感があっても、何をやったかが一ヶ月二ヶ月たったあとで自分で確認できないようにもなってしまう。そういう曖昧な状態のままにしておくと、次の別のワーキンググループをやろうというときに、前にワーキンググループやったけれど結局何をやれたかがわからないという経験があるため「ワーキンググループやって何か意味あるの?」というリアリティが生まれ、動機が激減してしまう。最低限のやることをやるのがワーキンググループ。やったけど何だったかわからないことは、たとえ自分の意識を誤魔化しても疲弊として蓄積されることを踏まえておく。

 

3 ワーキンググループの意義

 

→ ワーキンググループの意義の一つは学びのプロセスの取り戻しであるといえるだろう。自分に実際におこっているプロセスに応答するかたちでの学びは、フレイレの批判する預金型教育とは真逆のもの。

→ ワーキンググループをつくり慣れる。最低限やることを決め、同時にお互いに探究的であり、尊厳を提供しあう学びの場であれば全てワーキンググループと考えていいだろう。自分のデザインでいいし、自分がデザインし調整することに慣れる。ある学びがおこるためには、その学びのプロセスが動いていくにフィットした環境調整が不可欠。環境調整、環境設定をどう今おこっているプロセスにフィットさせるかこそが学びのプロセスがすすむための肝。個々人がいいワーキンググループを作ることに慣れてくると、あちらこちらで同時多発的にワーキンググループが行われるようになる。すると、自分にあった学びの環境が増えるし、一つのグループに依存してしまい、自分の自由やプロセスが左右されてしまうことが防げる。

 

→ ワーキンググループは学びを媒介させながら自分に戻っていく場所。学びを趣旨とせず、今の自分の安全安心のみを目的としたりすると、結果的に場が停滞し、いびつになっていく。また自分に戻っていくということがないところで自分に学びのプロセスがおこったりもしない。

 

現社会環境においては、個人主義などと言っても組織内では同質性が求められ、個人として環境に意見するなどということはおこりにくい。個人の自律性などいらないものとされているので、実態としては個人は自分の考えをもつ以前、自分の感覚をもつ以前、まだ個人以前の状態だと思われる。ワーキンググループは学びを媒介させながら個人を形成していく個人形成の場。その個人は「自分の生活」に閉じた存在ではない。個人は自分が社会そのものであることを実感し、自分を形成するために社会環境の問題に応答していく「社会主体」になっていく。

 

個人形成の場はそれぞれの個人の手づくりによって作られるものであるだろう。なぜならば自分のプロセスにフィットした媒体を自分に提供するのは自分個人しかいないからだ。たとえば、知り合いは詩を書く人だったが、広告の裏紙のようなものにしか詩を書くことができなかったという。詩など書いていない、重要なものなど書いていないというリアリティの設定をしないと、その人は詩を書くことが難しかった。もしその人が自分のプロセスが動くためのフィットした媒体を手探りすることなく、いくつもの「詩を書く市民講座」に行ったところで詩は書けないままだったのではないかと思う。自分のプロセスに対しては自分が感じとり応答する必要がある。自分のプロセスに対して、より適切なワーキンググループを作ろうと試行錯誤するリハビリの経験は自律的で応答的な個人としての自分を形成していく。

 

→ 既存の大きな組織、確立したグループに依存している状態を分散させる。組織にはもともと自己防衛、異質性の排除の傾向があり、「成員の意識的な努力」でそれを補えないことが多い。組織内部でいかに健全さを維持するかではなく、組織外に問題を考える場が必要。旅にでてようやく客観視できる日常があるように、個人はその環境のリアリティにのみこまれてしまう。外部で、利害関係者のリアリティに干渉されないで問題や違和感を感じなおし、整理することで健全な感覚がようやく生まれてくるだろう。