降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

探究の民主化 ジャンル難民ミーティングの位置づけ

ジャンル難民という言葉、別にオリジナルではなくてアサダワタルさんの「コミュニティ難民のススメ」からいただいたのですが、参加の方は割と気に入ってくれているようで、どのジャンルともつかぬ自分の探究や関心をあらわすのに、使い勝手がいいようです。

 

コミュニティ難民のススメ ― 表現と仕事のハザマにあること ―

コミュニティ難民のススメ ― 表現と仕事のハザマにあること ―

 

 

どちらかというとネガティブなアイデンティティのようにも聞こえますが、逆に開き直って(?)自由になれる肩書きのようです。

 

ところで国分功一郎さんは熊谷晋一郎さんとの話しのなかで、人と話すことは治癒の効果がある、しかし精神分析はお金も時間もかかるし、受けられる人は限られている、当事者研究はその民主化だね、と述べています。

 

僕は、当事者研究が現れて、心のことを専門家が独占することがようやく変わっていくのかと思いました。専門家が必要でないとは言っているのではありません。でも、非専門家ができることは非常に多くあるのです。当事者研究においては、今まであった専門家によるアプローチではできなかったことが可能にもなっています。

 

また、坂上香監督の作品「ライファーズ」では、終身刑になった人たちが自分たちの自助グループをつくり、回復していく姿を描いています。僕は非常に驚きました。プログラムは用意されたものであれ、非専門家同士で、人に大きな変化がおこっていると思いました。

 


ライファーズ映画予告編

 

え、こんなことがあるんだったらもっと心の専門家たちは、人を自分たちの専門下にだけ囲い込もうとするのではなくて、こういうやり方もあるよとか、横の自助的なものを紹介したり、こういうことをもっと発展させたり、社会のなかで仕組みとしてつくるような働きかけや研究をしたらいいんじゃないの、と思いました。

 

でもそうはならないみたいです。僕は一人一人が自分で回復していくあり方を知りたかったし、どう生きてけばいいのか、どう生きていけるのかを知りたかったのですが、そういうことはどうも「心理学」とはズレているみたいで、そんなことをやっている人が見当たりませんでした。もっと探せばいたのかもしれませんが、主流の人はそういう方向に行っていませんでした。

 

心理学を学ぶところにいて知れることはあるけれど、肝心なことはもっと外にいって自分で考えて、自分で確かめていかないとどこにもいけなそうだと思い、僕は人類学科に行ったり、ダンサーや演劇をやる人たちの話しを聞きにいったり、自給を学んだり、関係しそうな領域を横断的に探っていきました。

 

自分の知りたいことを確かめるためには、学問でまだそんなことが明らかにされていなくても、自分で「これはこうなっているのではないか?」と作業仮説をつくり、自分を実験台にして実証していく必要があります。

 

その手順や様式はいわゆる「科学的な方法」ではないし、「誰の理論だ」「どんな根拠だ」と言われても「自分の考えです」という他に仕方ないのですが、僕は普遍的真実を実証するために探究しているのではなく、状況を実際に開くということを軸にしていて、そのための妥当な考え、有効な考えと思われるものを常に更新しているだけです。

 

僕は、自分の関われる範囲で、落ち穂拾いをやってきて、その落ち穂を組み合わせることによって、自分にとって必要な状況を把握し、打開する考えを更新しています。それは普遍的真実のようなものではないけれども、べてるの家当事者研究で研究されたことがスキルとして「スキルバンク」に登録されるように、有効なものであると思っています。

 

僕は生きることとはどういうことなのか、社会というものはどういうものなのか、人間というものはどういうものなのかを自分が生きるために問うてきて、確かめ、その考えはあるまとまりをもってきました。それは「哲学」なのでしょうか。いや単に問うてきただけで、哲学書など一つも読んでいません。しかし、精神分析民主化当事者研究であるのなら、哲学カフェは哲学の民主化でありそうですし、その意味でなら哲学をしてきたともいえるのでしょう。

 

フェミニズムを一つも学んでいませんが、生物学的な意味ではなく、抑圧者、価値を奪うものという意味での男と、同じく生物学的な意味ではなく、被抑圧者、価値を奪われるものとしての女であるなら、同一人物のなかに男も女もいるし、状況や立場が変われば、男にも女にもなります。男と女を生む構造自体を分析し明らかにし、自分が解放されながら、環境を変えていくものがフェミニズムなのだとしたら、僕はそれを探究してきました。

 

僕の考えは様々なもののパッチワークであり、あるものを組み合わせて用を足すブリコラージュ(器用仕事)です。それは、全く見当違いの可能性もありますが、更新を続けるにつれ、むしろ話しが通じる範囲は広くなっています。以前は関係ないように思われた分野の人たちと話しが通じるようになっていくことが僕にとっての一つの指標です。

 

ある分野に認められないからといって、探究をやめる必要はないと思います。探究を続け、認識をより妥当なものに更新していくなら、権威には認められなくても、当事者間や実際性を重んじて探究している人には話しが通じるようになると思います。そして共に探究できるようになると思います。

 

僕はそれを文化人類学レヴィ・ストロースの野生の思考(ブリコラージュとしての思考)にならって、野生の探究だと思っています。

 

僕は探究は全ての人が意識していなくても大なり小なりしているし、探究することが自分が生きることの豊かさをもたらすと思っています。ジャンル難民ミーティングは、野生の探究の活性化であり、探究の民主化の活動として位置づけています。

 

 

野生の思考

野生の思考

 

 

  

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

kurahate22.hatenablog.com