降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

直接性と感覚(主観)が奪われる社会から逸脱していくために

縁あって資本論のゆるい読書会へ。
境毅さんに難しいところなどはサポートしていただいてみんなで一段落ずつ声を出して読んで、わからないところを話していく。

 

自分なりにとても印象に残ったのは、資本家は自然と(搾取的だけど。)関わることができる(自然から自分の必要なものを取り出して持ってくることができる)のに、労働者は自然との応答関係から疎外されているので、自分で必要なものを自然からとってこれず、資本家に依存しなければならないという指摘。

 

「労働者」とは、自然との応答関係を持つことができなくなった、疎外された存在。一方資本家は自然と独占的に関わることができる。資本家は「労働者」になる前の人の自然との応答関係をまず奪ってその人を自分が与える賃金に生を依存させた「労働者」にし、自然を独占しているのだととらえると、グレタさんの強い糾弾も必要だし必然とも思える。

 

「労働者」とは自然との応答関係から疎外されたもののことなのだから、その疎外から回復していくときは、自分が間接的(お金を通して)ではなく、直接自然や世界と応答関係を取り戻していく存在になることが必要だろうと思う。

 

短絡的に自給自足がいいのだ、という話しではなく、自給においても重要なのは生活必需品を自足すること以上に、世界との応答関係を持つことなのだと思う。応答関係を持つと、自分の暮らしと全然関係なかった雨水が意外に利用できることに気づいたり、捨てるだけだった生ゴミが肥料になるなど、それまであたかも壁のなかで完結していたような認識に風穴があけられ、世界がひろがってくる。

 

世界と直接的な応答関係を持つことで、世界の見え方が変わり、そして世界との関わりは直接的な応答関係をもったその接点を起点としてさらにひろがっていく。その経験をした人は、それまでの生活をあたかも壁に閉ざされて自分で何も触れられず、得られなくなった、牢獄のようなものだったように感じるかもしれない。

 

資本主義社会とは、個々の人を「労働者」と「消費者」にして、世界との関わりを間接化させることによって、世界との直接的な応答関係を資本家以外の人から奪い、より資本家に依存させる仕組みの社会なのだろう。

 

そこで人々は自分の感覚を鈍麻させられ、不安になり、自分が何をしたいのかもわからなくなる。世界と応答する感覚が鈍らされると、権威をもった誰かや何かがいうことに頼るしかなくなる。

 

感覚は「主観」とされいい加減な間違ったものとされる。しかし、自分の見聞や体験として確かめてきた範囲では、今、自分がもっている感覚をより育てていくことによって、ある時代が「これが正しい」としている間違ったこと、ズレたことを自分で相対的に見ることができるようになる。

 

感覚と世界を一致させることをやめさせると、人はどんどんとダメになると思う。例えばリテラシーというものであっても動的なものであって、感覚を使った試行錯誤であって、感覚なくガイドラインの羅列を記憶して完了するようなものではない。しかし、今の社会は人々から自分が世界と応答関係をもっていくために、必要な身体性を奪っているのが実態だと思う。

 

疎外から逸脱していくにあたっては、世界との直接的関わりと感覚の育成(リハビリ)を自分の手に取り戻していくのが指針になるかなと思う。直接性を回復し、主観(に過ぎない)として排除されている感覚を育成し、権威あるものに無感覚に従えという社会の沼に埋没した状態から頭を一つ出してみる。そこに見える風景は精神にとって何よりの贈りものになるのではないかと思う。