降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

やりとりの一部から 応答について

最近は、人間は良くも悪くも応答的存在でしかありえないなと感じています。

 

フランクルは、人生に意味を問うのではなく、自分が人生に問われていることに答えなければならないというようなことをいったそうですが、降りていくブログは生きるなかで僕と同じ問いにさらされている人に対して書いていたなあと思います。

 

それを自分と同じような、「人のために」というとそれは違って、やはりあくまで自分のために書いていましたが、(生から自分と同じ問いを向けられている)相手を想定しない限り、書くことや思いついたり考えたりする動機は生まれなかっただろうと思います。

 

それはつまり応答としてしか書けなかったということだと思います。同時にそれは応答するとき、自分が自分にない力に動かされ、また新しい力を得て変わっていくということでもあったと思います。

 

常々思っていたのは、本当に苦しんでいる人は妥協のない問いを発していると思いますが、もし僕のたどり着いた認識がその人にとって有用であると認識されるなら自分の確かめてきたことはあながち間違いではないということでした。

 

僕は自分の中に確かめるのではなく、何かに苦しむ当事者の人の問いに、自分の認識を確かめさせてもらい、それで階段を一段ずつのぼるように認識をつくっていきました。今でもそうです。応答として人に関わり、応答によって自分が更新されていくのだと思います。僕が生きることは応答に依存しているともいえるのではないかと思います。

 

特にここ1年はブログを読んでくれていた人との出会いがいくつかありました。考えてたどり着いたことをその人なりにとらえ、深く受け止めてもらえることによって、たとえそれが5、6年に1回とかであっても、自分が育てられていくように思います。

 

応答とは、自分の動くところと他人の動くところがひびくということでもあり、自己完結の応答はありません。自分だけが我慢したり、相手だけを我慢させるのも応答ではありません。

 

人は応答を生きることができる。そして同時に応答を生きることしかできないのだと思います。自分だけで背負うことは、本来、応答的存在である自分を殺すことですし、応答を返す人の可能性(応答することによってその人が変わっていくこと)もまた殺しているのです。

 

もし応答ということに、より感覚が開かれていけば、何をどれくらいやるのか、ということにも頃合いがつかみやすくなるのかなと思います。それもまた応答を繰り返すことによってリハビリされていきます。でも今の自分が応答していないかというと、応答の分しか生きていませんので、既に応答しているのです。