降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

価値の脱落

自分が何かを価値あることとして内面化し、それゆえ強迫されていることがある。

 

それらが変化するときというのは、転換、というような感じで、表から裏へみたいに明確な切り替わりがあるのではなく、腐った肉がずるっと骨から取れていくように、脱落していくという感じなのではないかと思う。鮮やかな感覚があるわけじゃなくて、それはただ死んで、減少し、なくなっていく。

 

そして世間ではその価値が普通はいいもの、素晴らしいものとされているから、それに自分がさして共感しないようになっていくと、ちょっと申し訳ないような気もする。

 

たとえば、僕は「成長」など存在しないと、5年前ぐらいからはじめたこのブログの最初の投稿から言っていたけれど、僕が考えてきた「回復」は、よりよくなることであり、いわば「適応」だった。

 

今、苦しみがあり、それをなんとかしていくということには何ら問題はない。ただ、別に回復はそちらにいかなければならない方向ではない。回復した人が比較的回復していない人より価値が高いのでもない。

 

別にきれいごとを言いたいわけではなくて、そこに価値をおくことが、結局はより回復する、より幸せになる、より抑圧から自由になる競争みたいになってしまうからだ。別に競争しても仕方ないし、競争しようとするところには、あるべき姿に比した今の自分の否定があり、変化のプロセスは硬直し、止まってしまう。

 

「回復」しようとしているのに、「回復」を停滞させる前提を持ち込んでいるのだから、自己矛盾であり、成り立たない。回復が素晴らしい、回復の方向へいくべきだ、ととらえてしまうと回復が停滞するのだ。

 

よって、回復とか気にしないほうがいいということになる。どこか今ではないところに行こうと思わず、自分にとって整いになることをただやればいい。意味はないのだ。

 

意味はない。それは単に自暴自棄になったらいいということでもないし、シニカルになればいいということでもない。突き詰めたところでは、どこもいくべきところはなく、あるべき姿もない。

 

意味とは強迫であり、強迫がとれたところで自分が変容していくプロセスがおこる。いい人になりたいと意思的に切磋琢磨すれば、かえって自分の悪いところ、人の足りないところを憎んで変化が停滞してしまう。自分に何かを強制すると、人がそれを自由にしているのが許せなくなる。自分がイメージしているいい人は、過去のイメージであり、既知の閉じた世界に無理やり自分をはめようとしているのだ。

 

(野口)整体は、三代で完成(完成、はちょっとニュアンス違うかもしれないけれど。)するともいわれているらしく、そうすると、一代目、二代目はどんなに訓練しようが最終的なところにはいけない。この考えは各人のいらない強迫、意味への邁進をあらかじめとっておくというところがあると思う。

 

しかし、まだ諦めない人もいるだろう。自分の子どもを作って、その子どもに整体やらして、その孫まで整体的環境に置いて、夢の完成だ、というような。冗談のように言ったけど、本当にいると思う。

 

整体をやった人の子どもは、「根拠のない自信がある」と親御さんには感じられるという話しも聞く。親に比べて根拠のない自信を持っている二代目のほうが何か優れているから価値がある、のだろうか。僕がそうなれないからそねんでいるのではなく。

 

自分というものを実体ととらえずに、自分の生とはある特殊な環境を「変化のプロセス」が通り過ぎたと考えたらいいんじゃないかと思う。どの人もそうで、その人しか入れられてない環境(自分の体や精神を含む)を通り過ぎる。通り過ぎる旅で、何を手に入れたのかが重要だと思われるかもしれないけれど、通り過ぎるだけなのだから、何も手に入れていない。

 

意味を求めるとは、今後の役にたつものを求めるということだと思うのだけれど、最後は消えるのだから、意味はないわけだ。どうしても人類は存続しなければならない、と頑張っても、終わるときには終わるだろう。そもそも「人類」とかいうのがフィクションなのであって、個人は自分が死んだらそれで全部終わりなのだから、何も続いてない。文明が発達していると信じ(させられ)ることによって、社会は個人を夢というニンジンでつって動かしているけれど、文明が発達していくというのは、自分が獲得することができない、つまり個人とは関係のない、ビジョンのためのビジョン、人を一方向に邁進させるためのビジョンでしかない。

 

科学が発展して、とか考えても、発展することによって、記憶がいじれるようになったら、本当に「自分」が生きてきたのか、それともこれは偽りの記憶なのかもわからなくなる。昨日寝たときに殺され、今朝おきたときに昨日の記憶があるから自分は生きていると確認できる、なんてことは成り立たなくなる。自分とは記憶だ。改変可能になったら、自分が生きる意味はなくなる。そもそも自分がなくなっているから。この自分が何かを獲得すると考えるから高揚するわけだけど、その自分がないわけだから、自分が生きることを含め、頑張って何かやるのは馬鹿げているということになるだろう。

 

変化のプロセスと感応するために必要なのは、自分(自意識)の打ち消しであり、強迫の打ち消しだ。強迫とは意味であるので、意味の打ち消しであるともいえる。意味がないとき、そこにただ変化のプロセスがある。よって、より優れた人間がいい、より天然に育った人がいい、という価値を持っているならば、そこでは変化のプロセスは停滞する。何を獲得したとしても、そこでもまだ何かの強迫を抱え込んでいるならば、打ち消しはされていないのであり、停滞という反映があるだけだ。

 

正直、僕もそりゃあ子どもはより健全に育ったほうがいいし、個人は抑圧を抱え込んでいるより、解放されていくほうがいいだろうと思っていた。しかし、意味が打ち消されたところがプロセスが生きているところなのだから、そのような価値観も変化と生を停滞させるだろう。

 

実際、そんな健全にみんなが育ちうるわけでもないし、そういうのがいいという価値観だったら、回復しない人、抑圧しない人はダメな人、かわいそうな人になってしまう。すると、その見方自体が他人のプロセスだけでなく自分のプロセスを停滞させるのだ。あああってはいけない、そう考え、自分を意思でしばり、停滞してしまう。

 

どんなひどい境遇にあっても、あるいは素晴らしい環境にあっても、本質的には等しく意味はない。意味が打ち消されたところ、自分が一瞬でも打ち消されたところがプロセスが動いていく本当のところなのだから。

 

今、自分の価値観は、誰かが抑圧されたままで死んだとか、子どものころに恵まれずにそのせいで「豊か」に生きられなかったからその人は得るべき何かを失ったかわいそうな人だとか、思わない。

 

自分のその実感の変遷を表現するならば、「上」の人(つまり回復した人、解放された人)がいなくなって標準が下がったという感じ。かわいそうな人が上にあがったのではなく、ただ「上」と思っていたものが「上」というほどでもないな、何でもなかったんだなという感じだ。

 

この世界は荒野。何も思い通りにはならないし、生きものの世界というのは、基本的に修羅の世界なのだ。荒野であることを認めずにユートピアを求めると、それが抑圧となって人間が余計に実存的に苦しむ。荒野という認識は、世界を自分のものとして所有しないということでもある。世界の悪化に苦しむのは、世界を、所有している自分の財産だと思っているからだ。

 

で、何をするか。世界に意味はない、幻だと自分に思いこませて隠遁しても、自分のなかに既に出来上がったものを信じていたら、それは単なる自分の精神の抑圧にすぎない。それは結局自己イメージを大事に守るためにやっているわけだ。

 

あるべき姿はなく、意味はない。その時浮かび上がってくる自分のプロセスに応答する。それだけだし、それでいいのだと思う。応答するのは、それが自分をゴールに導くからではなく、気の通りがよくなるからだ。

 

世界は荒野だ。実在の殺人鬼をモデルにした映画で、殺人鬼は車が故障したふりをして待ち伏せ、助けにきた親切なドライバーを殺していた。身もふたもない。生は、幸せは、所有できない。この残酷な突き放しが逆に、救いなのだ。本質的には意味がないのだからどうあってもいい。

 

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自分のプロセスを見つけられない、と余計に苦しむこともない。そもそもどこにも行きつかないのだし、どこかに行ったとして苦しみがなくなることもない。取れるとすれば「余計に」の部分の苦しみがとれるだけだ。「幸せ」や「回復」、「ゴール」を真に受けた影響は、「余計な」停滞だ。しかし、停滞しなかったとしても、本質的には何も獲得しない。通り過ぎるだけだから。