降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

【催しもの】5/8 (水) 14時〜  熾(おき)をかこむ会

星の王子さま読書会の進行役、臨床哲学者の西川勝さんと一緒に話しをする場です。初参加の方も参加できます。

 

■熾をかこむ会

時間 5/8(水)14時〜 (以後毎月第二水曜日14時〜 6月は12日)

場所 茶山KPハザ(白いマンション「洛北館」の西向かいの駐車スペースを奥に入った左手が入り口です。)

 

話しの場というもの自体にそんなにイメージがある人も多くないかなあと思います。

 

僕にとって話しの場とは変容のプロセスをおこす場です。変容のプロセスはおこすというか浮かび上がってくるものであって、そのプロセスの求めに応答することでプロセスは進んでいきます。

 

そのプロセスが浮かび上がってくるためには、あんなことになったらどうなるだろうとか、どう言われるかわからないとか、そういう不安や恐怖が打ち消されたり、緩和されていること、そしてそもそも場を囲む人にとってプロセスが動きだしやすいタイミングであることなどが重要かなと思っています。

 

不安や恐怖が強すぎたり、逆にいま別に何の痛みも感じていなくて揺り動かされる必要がないこともまた、無意識に変化のプロセスを止めるような動きをしだす要因になると思います。

 

後者は自分が揺れそうな話しが出たら、すぐ一般論に持ち込んでお茶を濁すとか、その話しを出した誰かを慰めてその話しを直ちに終わりにしようとするみたいなことです。そういうことはその人が意識しなくても、自動的にやりだすものだと僕はとらえています。

 

あとは、たとえるなら「場の磁場」のようなものがプロセスを生んでいきます。誰かがその人の震えるところで話しだすと、その震えは周りの人に伝導し、周りの人もそういう状態になって、その震えに応じた状態で話しが出てきます。

 

個々人が自分で何か話題をピックアップして話すのではなく、その震える状態自体が思い出すことを決め、話しの内容を決めるといったような感じになります。そういうプロセスが動くことは、自意識に不安を与えます。変容とは自意識が知っている安全な世界の外に出ることだからです。

 

しかしプロセスが高まっていると、個人は自意識の恐れをこえて、そこに応答したい気持ちを持ちます。

 

自律的だと僕がこれまで何度も書いてきたのはそういうことです。プロセス自体にある程度の自律性があるので、変容更新のプロセスの方が高まっていれば、自分自身のなかに多少の抵抗があってもプロセスの動きが勝り、プロセスが進んでいくのです。

 

たき火をイメージしてもらったらと思います。ついたばかり弱い火はすぐ消えます。すぐ燃え移りそうなものを周りに置いといてやるとか、そういうケアが必要です。しかし、ある程度の勢いを得れば、あとは燃えにくいものでも勢いよく燃やす力を持ちます。

 

話しの場をつくる人にとっては、いかにプロセス自体が動きだすか、そしてそのプロセスが勢いを得ていくかが重要になります。必要な仕事をするのはファシリでも参加者の自意識でもなく、プロセス自体なのだということです。

 

火は、プロセスのイメージそのものだといっていいぐらいだと思います。いい場とは、たとえば夜中の山小屋で、夕食が住んで一人一人と眠っていくなかで囲炉裏の周りに残った人たちが火が燃えていくのをみているような感じがあるような場かなと思います。

 

磁場という言葉も使いましたが、プロセスの特徴は連動だなと思います。実際に燃えていく火をみて、無意識に自分のなかで何かが終わっていくプロセス、終わらせようとしているプロセスが刺激を受け、動きだします。

 

意識の強制操作でやらないというのが重要です。意識がやることは、プロセスが動きだすための整えです。意識的に直接何かさせようとしすぎるファシリテーターは逆に場のプロセスを止めてしまいます。

 

プロセスを信頼できないファシリテーターは、思い通りに行かないときより直接にコントロールしようとし、自滅的になります。逆にプロセスがやってくれているということをより実感していくなら精神的にも楽になっていきます。

 

さて、僕は自分自身のプロセスと場のプロセスが並行してすすむかたちはないかと考えてきて、少人数で強い動機を持つ人とこの指とまれでやるというかたちがいいと思っています。

 

場の構造とか、外側の話しばかりしていましたが、自分のプロセスにもどります。タマネギの皮を剥くと水分を含む中身が出てきますが、皮を剥くように、とりあえず自分が揺れ動かず、影響を受けにくい、鈍い状態のままから少しでも皮を剥いた状態にできればと思います。

 

今、自分がどう生きようとしているか。僕は日常を空疎に生きている感覚を持っています。今まで、自分がどんな面であってもどんなに少しでも回復することをやってきたと思っています。

 

実際にそれまでの自分が崩れた中学校の頃よりエネルギーはあるし、色々なことができるようになっています。ただ、なお本当に生きているという感覚が薄いです。死んだように生きているように感じるのです。

 

なるべく傷つかず、回復していくように、正社員で働くみたいな危なそうなところには行かず、なるべく自分のフィールドを持ってそのなかでやってきたように思います。それは非常にゆっくりとしたものでした。と同時に、自分を守るための厚い殻、殻による行動様式を発達させ、環境と相互作用をおこすのも最低限になったように思います。

 

守りを発達させすぎて、必要なものに出会うということもまた難しくなっている。これが自分の現状かと思います。単に人に会いにいくだけではなく、自分だけの理屈では通じない外の世界に行くこと。流れがない場所だけにいたのを、もう少し流れがある場所に行く。

 

自分の殻を守ることを最優先させていた状態から少し身をずらしていくことが必要であるように思います。誰かに声をかけたり、協働を提案したりすることには不安がありますが、そこをやっていくことが自分の殻に閉じ込められて、世界との相互作用を失い、隔絶されてしまうことから抜け出ていくあり方なのかなと思います。

 

などと思うと同時に、もう少し自分が何をしようとしているのかをメタ的にみてみたいと思います。もっと環境との相互作用をおこせる場をもちたいと思うのは、空疎感に対するものです。そして生きていけない不安を減少させるためということもあります。

 

空疎感に対して必要な応答をしていけば、たとえば突っ込んだ話しができる仲間たちができて、それに伴い自分が生きていける環境が形成されていくのではないかと思っているのですが、そこに変なものは混ざっていないかなと思います。

 

順番がおかしいかもしれません。空疎感への向き合いより先に、こうなったら生きていけるはず、もっと日々が充実するはず、だから空疎感に向き合おうみたいなことになっているような気がします。恐怖に対して、次の手を打とうとしている。しかし、恐怖に対する動機は一時的な反動であり、続かないものです。

 

自分はこのままでは生きていけない感じがある。この社会で生きていく力が足りないと思っている。常に不安がある。しかし生きていけるようになかなかなれない。そのための動きができない。しかし生きていかねばならない。言い訳のように、生きていけそうな方向に向かっているふうに生きる。このループから脱していないように思います。

 

何かを達成した後に、生きていけると感じるのであれば、それはいわば殻を厚くしたに過ぎないのではないかと思います。そして何を達成したところで上のループの強迫は多分続くでしょう。確実な安定を得ることなどできないのに、確実さ(を錯覚できるもの)を求めないと不安でたまらない。

 

そういえば、世界の誰かが自分を発見して「救って」くれるのではないかというような変なイメージを持っているようです。自分がやることをやっていれば、いつか誰かが見つけてくれるのではないか。そうすると救われるというようなぼんやりとしたイメージ。自分の生きていく力の無さ(の実感)と裏返しのもののように思えます。

 

このままでは生きられないから、生きていく力をつけなければいけない。そのための環境を形成しなければならない。この強迫はつまるところ、自分を疲弊と退屈なことに従事することに向かわせているでしょう。

 

まだ自分の核にいったような気がしませんが、今日はここまでにします。