降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

罪の取り戻し 宇井純『自主講座「公害原論」の15年』

昨日のDIY読書会、「宇井純さんの自主講座「公害原論」の15年」を発表する。

 

修復的司法の研究をされている小松原織香さんがされている環境と対話研究会の読書会で知った本。

 

当時は公害に向き合える学問分野などなく、公害に向き合おうと思えば、自分たちでゼロからはじめなければならなかった。

 

東大工学部の教授たちにとっては、大学の教壇を助手や一般市民などに使われることは沽券にかかわるようなことだったようだ。圧力がかかったが、協力的な新聞記者が記事を書き、その加勢で大学が動き、自主講座が認められた。

 

自主講座なのは、宇井さんが工学部助手という立場であるために、大学の正規の講座とは認められないため。当時は助手差別もひどかったようだ。自主講座は70年10月から86年2月まで続けられた。工学部は宇井さんを昇進させず、辞めるまでずっと助手に据え置いた。

 

自主講座からは市民エネルギー研究所をはじめ、様々な自律的活動が生み出された。しかし、宇井さんの処遇をみると、東大の体質や姿勢自体は変わらなかったということだなと思った。

 

また40年前、50年前の人の感じと現在の人の感じがまるで違うことに驚く。

 

自主講座には、時には千人の人が参加した。どのような人気の分野であっても、現代でこの講義やりますからといって、市民千人が集まるものだろうか? 60年代後半、70年代を境に一般の人あり方が変わっていく。それがなぜなのか、知りたい。

 

人の変化は、不登校界隈の現場でもおこっていたらしく、不登校証言50年プロジェクトのなかでもそのことについて言及されていた。

 

駒﨑 あのころは、おもしろかったんだよな。通信制の子も4~5人、活動してました。でも、そういう感じじゃない子が来始めたわけです。学校でひどい目に遭ったからとか、そういう感じじゃない子が集まりだした。

山下 ハッキリと敵が見えていて、それに対して運動する、連帯するというのではなくて、自分でもよくわからない苦しさがあって、どうしていいかわからない。もやっとした苦しさがある。そういう「よくわからない感じ」が、だんだん広がっていった……。
 そういうなかで、先ほどおっしゃった「学校の軽量化」とか、脱学校論みたいなものも、だんだん通じなくなっていく感じはありましたでしょうか。

 

山下 私もフリースクールに関わっていて、同じような難しさを感じるところがあったんですね。かつては共有できていたものが、だんだん通じなくなっていく感じというか。そのあたりは、なぜなんだろうと思っているのですが。

 

駒﨑 70年代の大学闘争がアウトになったあと、どうも日本全体の倫理のレベルが下がった気がするんだよね。他人の状況がどうだろうと関係ない。自分のことじゃなくても、これは何とかしないといけないと思って動くようなことがなくなっていますよね。社会問題で、「こんなこと許せない」「これはひどい」という感覚がなくなってきて、感覚的なところで投げやりというか、70年代半ばから80年代以降、倫理や価値観が劣化しているんじゃないかと思います。正義なんか関係ない。人々が、やさしさとか自由を追求しなくなった。

 学校の状況もひどくなっているでしょう。その背景を考えていくと、そのあたりから始まっているような気がします。脱学校というより、みんな脱力してしまっている。こういう状況だと、どこに手を打てばいいのか、正直に言えば、わからないですね……。
不登校50年証言プロジェクト#39 駒﨑亮太さん  

 

futoko50.sblo.jp

 

読書会では、酒井隆史の『暴力論』も発表された。そこで、かつて社会の改革を目指して活動や運動していた様々な組織が、その政治性を失い、今にちかづくにつれ、ただ自分の経済のための組織になっていくという現象が指摘されていた。

 

このことは、宇井純さんの本や、不登校証言プロジェクトの駒崎さんの指摘する「倫理や価値観の劣化」と通じることであるように思える。

 

国の経済成長第一主義のなかで、公害を引き起こす企業を止めようとする力は弱かった。それぞれの地域の人々は、生活や健康を破壊されながら、被害に見合う保証もされず、捨て置かれた。

 

そのなかで、高知の漁民が有毒な排水を垂れ流す排水管をコンクリートで詰めるという事件がおきた。実行者は有罪になったが、その行動は社会に衝撃を与え、現状を変えた。

 

現在の国による暴力を映画にしている方の子どもが親に対し、なぜそんな世間が嫌がるような、事を荒だてるような事をするのかとなじったという話しを聞いた。法律には守られているが多くの人を抑圧し、破滅に追い込んでいる暴力があって、それに対する直接行動は犯罪になる。

 

消費社会における一般人は市民であるよりも、単なる消費者になっていく。暴力も振るう必要がなく、綺麗に、無責任に生きられる。東京オリンピックで使われる木材は、現地の住民の生活を破壊していて、その反対運動をしているリーダーは殺されたりしている。その暴力は、ちょっと口で批判したぐらいで変わらないものなら、どうするのか。

 

旅客機に車椅子で乗ろうとした方が拒否される事件があった。その時、本人の頑張りで、素直に引き下がらず、問題化させることで、社会はしぶしぶそのことの正当性を追認した。もし問題化させなかったら人権が守られる状況はさらに後退していっただろう。

 

おかしなことを問題化させることは、この世間では「迷惑をかけること」だととらえられて抑圧される。上で見たように、どうやら今の世間には思想も哲学も消失しているので、個々人の都合を邪魔する奴は悪い奴ということで合意が取れる。ストライキも交通の邪魔になって悪、保育園うるさい、薬物依存症の人の回復施設などとんでもないということで、現在強くて抑圧的なもの、見えない大きな暴力を振るっている存在はフリーパスなのに、実際にそれを止め、現状を変えようとする人を自分にも迷惑がかかるからと敵視し、攻撃までする。

 

生きづらい人たちは、自分があまり働けないとか、税金のお世話になるとかで、蔑視され、抑圧される。しかし、むしろ自分は何の問題もおこさず生活していると思っている人こそ、否認している罪を取り戻さなければいけないのだと思う。罪を感じないのがいいのではなくて、否認している罪を取り戻し、罪人に戻ることがもう一度人になっていくために必要なのではないだろうか。

 

生きづらい人たちは、他人に言われてなくても罪の意識を持っている。同様に、自分は誰にも迷惑かけていないし、自立していますという人に罪が取り戻されなければならない。生きているのに、罪なく存在できるという与えられた幻想を終わりにしなければ人間に戻れないのだから。

 

想像してほしい。全員に罪の意識のなくなったところはユートピアだろうか?そこはディストピアだと思う。生きづらい人に罪の意識を感じなくていいよというより、罪が社会全体に取り戻されることが必要だろうと思う。

 

 
(その欺瞞を鋭く突いた松岡宮さんの詩「謝れ職業人」を松岡さんの許可をいただいて、ブログに転載させてもらっています。)

kurahate22.hatenablog.com