降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

【感想】修復的司法×水俣×吉田寮〜対話の場を支えるもの〜

永野三智さんと小松原織香さんと吉田寮の人たちの座談会。

 

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それぞれかなり踏み込んだ自分の体験やプロセスからのお話しだった。それぞれの人、環境、お互いや主催者との間の信頼感がなければこの水準での話しがされることはなかなかないんじゃないかと思った。

 

当事者としての体験から「対話」に向ける思いと、対話の「効果」を期待することの誤りがここでも指摘されていたと思う。語りからは、問題が解決されたり、緩和されるために「対話」があるのではないということが再確認された。

 

一方で、問題を解決したり、緩和するためのものとしての、世間の言葉としての対話はもうなくならないだろうなと思った。変な言葉として使われ、消費されていくだろう。言葉がだめにされるというのはこういうことなんだろうなと思った。都合よく使う人たちのプロパガンダみたいに使われて、その結果その欺瞞や空虚さがその言葉のイメージになる。

 

ふと糸川勉さんが「自己満足」という言葉をいい意味で使っていたのを思いだす。世間では、この言葉は批判する時に使われる。(最近は言う人が少ないだろうか? 保育園つくるなとか、薬物依存症回復施設つくるなとか、最低限だった建前すら崩壊していっているなかで、自分だけ良ければいいは特に恥ずべきことでもなくなっているのだろうか。)

 

糸川さんの「自己満足」は、世間におもねることのない、深い満足のことだった。孤独をへて社会の問題に向き合った人が生み出したものは、抑圧的な規範に亀裂をいれ、新しい質を周りの人に体験させる。坂口恭平さんなら「プライベート・パブリック」というだろう。そのようなものがやがて次の公共性を生んでいく。

 

既成のものの権威にすがって自分を保っている人は新しいものは受け入れられない。自分の価値観に対する反逆のように感じられるのかもしれない。「自己満足だ」と否定する。糸川さんの「自己満足」はそれで上等だ、とそういう人たちに対する反逆の態度をこめた言葉なのかもしれない。

 

僕は、一つの言葉には使うに値する質が必要だと思っている。そして、もしある言葉に使うに値する内容があるとしたならば、このような位置づけになりうるのではないかと逆から定義することもある。思考していくにはそれが必要な行為だと思っている。

 

それは以前から述べているように、ある言葉には見えにくい前提があり、既にその前提のうちに結論を内包しているからだ。だから間違った前提が見えない限り思考は必ず間違った方向に導かれる。思考する意味がない。むしろ思考するとは、自分が無自覚に取り入れている見えにくい無自覚な前提を破綻させ、そこから抜けていくところに意味があるのではないかと思う。

 

ある言葉が使うに値しないというのは、その言葉自体が特定のバイアスを持っているために、思考を閉じた方向、誤った方向に導くからだ。真に受ければ真に受けるほど、使えば使うほど間違った方向にいく。抑圧的な結論になる。

 

もし対話という言葉に使うに値する位置づけがあるなら、それはするものでもやるものでも、しようとしてできるものでもない。対話は目的たりうるかもしれないけれど、手段ではない。問題解決、問題の緩和のための意図的な話しなら、別に「対話」のような、深い内容があるような、思わせぶりな誤解を招く言葉を使う必要はなくて、相談、折衝とでもいっておけばいい。

 

手段では成り立たないのに、なぜ対話が目的たりうるかというと、それが対話がおこりうる開かれた態度、柔軟な態度、人を大切にする態度や関わりをもたらすからだ。対話を「おこる」ものとして設定することの意義は、実際の態度を設定することだ。

 

「対話し続ける」「対話を諦めない」とは、実際には開かれた態度と応答をつづけるということであり、自分は「対話」をやっていると本気で思ってしまったら、それは既知のものにたかを括った態度になっているのであって、それは対話がおこる態度ではない。対話がおこるような態度、応答を続ける。対話がおこるような環境(自分も含む)の設定やを整えをする。それが人間にできることなのであって、状況や相手を直接操作できるように思う傲慢は、動こうとしている変化のプロセスを止める。

 

話しのなかで、「待つことだと思う」という言葉がでた。変化は自律的なものであり、それ自体の「時間」をもつ。「待つ」ということは、物事にそれ自体の自律性を認めるということ。人に対してこの理解ができないということは、人を操作対象としてしか認識していないということだ。それは人をモノとしてみることであり、そうされることによって人はさらにその人の時間を止めてしまう。

 

遺伝子操作でもしなければ、植物をどう操作しようがそれ自体のなかで決まっている時間やプロセスをこえて実をならすことはできない。ただ環境を整えることで、そのプロセスの滞りをとることはできる。それが人を対象にした途端、直ちに操作に有効な手段ばかりが発想される。その発想とアプローチ自体がその人の時間を止め、変化を停滞させるのにもかかわらず。

 

平和省は戦争に関わり、真理省は虚偽に、愛情省は拷問に、そして潤沢省は飢餓と関わっている。こうした矛盾は偶然でもなければ、一般的な偽善から生じたわけでもない。ジョージ・オーウェル『一九八四年』

 

重要な言葉が、真逆の内容をいれられて殺される。オーウェルの話しのなかだけではなく、世間では本当にそうされていく。

 

対話という言葉が、決まったゴールに対する働きかけを意味するなら、対話という言葉は使われなくなってもいいだろうと思う。真逆のことがされているから。

 

座談会のなかで直接的な言葉としてはあまり出なかったけれど、永野さんと小松原さんのお話しは、赦しとは何かということについてのお話しでもあったような気がする。自らが自らの罪を認識し、その罪に問われながら、探している。その姿自体が社会や人に与えるものがあると思う。

 

吉田寮には70人か80人ぐらいの人が来ていたかと思う。40年前に大学が寮生を追い出したり、提訴するなどと考えられなかったと衝撃を受ける人もいた。教授会で決められた決定も理事会ではひっくり返すことが可能であり、理事会が権力を握っているという現状も報告された。また京大がかつてアイヌから奪って来た遺骨の返却をいまだに拒み続け、当事者の門前払いを続けていることも伝えられた。