降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「現実」をつくる鏡

徳島県の自殺稀少地域の人たちにアンケートをとると、自分は幸せでも不幸せでもないと思うと回答する人が多かったそうです。

 

bookclub.kodansha.co.jp



幸せとか、そういうことをふりかえって認識していないひととき、自分が何であるかとかそういうことが意識にない一瞬があるとき、自分はまだ回復していない、幸せじゃないという認識をしていたとしても、その状態がすでにある意味達成された状態なのだと思っています。

 

苦しい人がその苦しさが減ることを求めるのは当たり前で別にそれをやめることをすすめているのではないのですが、別にどこかに行き着くところ、幸せを手に入れた状態がくるわけじゃないようです。

 

「回復」したと思ったら、それを台無しにするような深刻な病気や事故がやってくる場合もあるでしょう。回復してそれからが「本当の人生だ」というふうに錯覚することはできるけれど、でもそれは手に入れたものでも、所有できるものでもないです。

 

それを考えると、そういう状況になった時に、なんでもっと気持ちを楽に生きてこなかったのかと思うのではないかと思うのです。お金を貯めてきたら使う機会がなかったような、あるいは泥棒に奪われてしまうようなことがあれば、それだったらもっとこうすればよかったと思うのは、自然な自分で生きてこれなかった、どこかずっと我慢していたということだったと思います。

 

小学校で、黒板に書いた自分の字を見て「うん、美しい」という先生がいました。それは冗談でしたけれど、自分が回復したのかどうか、幸せかどうかを、何かの基準に照らしあわせて、鏡に映して、そのことがようやく確かな「現実」として受け取られます。

 

でもどうやら、何かの基準に照らしあわせたり、白雪姫のまま母のように鏡が答えてくれたものを「現実」として確かなものだとすること自体が、余計な苦しみの元凶のように思えます。自動的なので避けようもないのですが、認識の鏡に映す行為自体が生きているプロセスに干渉をかけ、止めるのだと思います。

 

インプロのウォームアップをやる時などは、今の自分がどうだろうかとか、そういう頭が働かない状態をつくっていくみたいだと思いましたが、自分の認識の鏡に映されて動けなくなってしまう自分に対して、そのように鏡に映される状態にさせないことで、より自分の生きたプロセス、自律的なものが浮かび上がる状態にずらしていくことができます。

 

過去の鏡、言葉の認識の鏡に映したところに「本当の自分」はいません。「本当の自分」がいるんだろうかどうかと考えたり、比較検討して今の自分の姿を認識の鏡に映してしまうことがされないときに、あるいはインプロのウォームアップのようにそういう状態を積極的に打ち消すときに、自律的なもの、生きているプロセスがあらわれます。そしてそれは知っていてコントロールできる「自分」ではないのです。

 

知っていてコントロールできる「自分」じゃないものが生まれ、現れてくるところが本当のものということになりますが、それもそれが本当のものだと言葉で認識したときには既にそれは時間が止まった偽りのものでしかないというジレンマがあります。

 

言葉を通して、確認しなければ、確かにしなければ、それは「現実」にならないのでしょうか。黒板に書いた先生の字が美しいというとき、それが書かれている過程は美しいのでしょうが、書いているとき本人はそんなことは思っていません。余計なことを考えていたら字もゆがむでしょう。

 

書いた後、それを自分の目でみて、認識の鏡に映して、ようやく「美しい」という「現実」になるのは、本来は過程自体が現実であるはずなのに、認識する行為が「現実」をつくる本末が転倒したことなのではないでしょうか。

 

認識しないとまた再現ができないじゃないか、繰り返し再現できないと意味がないじゃないかというとき、その再現は死んだプロセス、止まった時間、殺したものの再現なのです。繰り返し同じように再現できるのは止まったもの、死んだものだけです。

 

言葉の認識の鏡に何かを映すとき、それは生きたものを死んだものにするという代償を伴って、確かなもの、操作できるものと実感しているのだと思います。

 

言葉の認識が立ち上がってない状態のときが本来の生きたプロセスそのものに戻っているときであり、そんな自分に気づき、言葉の認識の鏡にその生きたプロセスを止めて映しているときに、生きたプロセスは止まっています。

 

自分が居心地いい場所がなぜ居心地がいいのか、あるいは何かの活動をしているときはなぜ比較的心が楽で解放されているのか。言葉の認識の鏡が立ち現れてくるようなきっかけが打ち消されているからです。自分を映すということが出てこないようにできれば、それで十分であり、そのとき生きているプロセスは動いています。

 

「本当の自分」にはなれなくて、ただ今の自分が消えているとき、認識の鏡が立ち現れず、打ち消されているときに、動いている生きたプロセスがあります。ならば、なるべく自分がある状態を打ち消しながら、そのプロセス自体に入れるようなことをする、というのが、自分というこの機械的な自意識でもできる代替的な手段なのだと思います。