降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「時間」のイメージ4つと動きだした種

2/10日曜日、14時からちいさな学校鞍馬口で「自分の「時間」を知る」ワークショップを行います。10日は正式募集が今日からなので鋭意募集中です。8日は大阪富田のカフェコモンズでも「時間」の短い発表とジャンル難民ミーティングを行います。

発表に先立ち、「時間」というプロセスの捉え方をどう説明するか考えていて、昨日はオンライン当事者研究などでもその相談をしていました。

 

「時間」を把握し、実用的に利用するための4つのイメージがあります。まずは、1秒、1分、1時間というような実際の時間です。ここでは、全ての物事を変化させていくもの、変化のプロセスとしてのイメージをかりています。そもそも「時間」と表現するのは、日常語でも比喩的に「あの時から私の時間は止まってしまった」とか、「そこから私の時間は動き出した」などと表現される場合もあることからです。

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2つ目は「種」のイメージです。種はそれぞれに必要な条件が満たされれば止まっているような状態に変化が訪れ、自律的に生長展開していきます。1秒、1分という実際の時間は止まりませんが、種には止まったイメージがあります。人間の精神におこるプロセスは、必要な条件がみたされなけば動きだしません。あるいはプロセスに必要な条件が奪われれば止まってしまいます。「時間」が動くことは、外面的には種に必要な条件が与えられ、自律的な生長展開がおこるようなことです。「時間」が動き出した人は新しい活動を始め展開させようとしているかもしれません。

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種のイメージは、必要な条件が揃うこと、自律的な展開のプロセスを持っていること、そして止まったイメージを持ってもらうためのものです。

 

3つ目は「たき火」の燃え残りのイメージです。「時間」を動かすとは、燃え残ったものを灰に帰していくこと、消していくことともいえるからです。燃え残ったものを火の中心に寄せたり、燃えかすで埋まって空気が当たらないならかき混ぜて空気を当ててあげます。火の中心、とは自分にとって何でしょうか。また空気をあてるとは自分にとってどういうことでしょうか。

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「時間」を動かすことには、充実や希望、解放感が感じられますが、それは終わらせていなかったものを終わらせるプロセスに対して感じられていることであると考えています。ある人が「自己実現」して外面的には多くのものを獲得するためにやっているように見えても、内面では、それは終わっていないものを終わらせるための試行であると認識しています。

 

4つ目は、研究仲間である珍妙さんから紹介してもらったイメージですが、歯車のイメージです。これは「時間」という捉え方そのものについてのイメージというよりは、「時間」という捉え方を日常に応用する際のイメージといえるかと思います。

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大きな時計のなかに大小様々な歯車が動いています。大きな歯車はゆっくり、小さな歯車は速く動いているかもしれません。ただこの時計は生きている時計なので、正確に1秒を刻むのが目的ではありません。

 

自分の日常が様々な歯車によってできているとイメージするとき、自分にはどんな歯車があって、それぞれの歯車はどんな大きさで、どのように関わりあっているでしょうか。

 

どこかの歯車が調子が悪くなると、全体の調子も悪くなります。大きな歯車が動きにくいなと思うとき、直接大きな歯車を動かすのは大変かもしれません。その時に小さな歯車の調子を良くすることができたらその影響も全体に広がります。

 

その考え方で調子悪いときは悪いなりの機会を生かして整えられることを整えると、やがて整えによって精神の活力が回復していくと思います。

「時間」は見えないプロセスをつかまえ、そこと肯定的な関係性を結ぶ実用的な言葉として提起しています。はじめから考えずに「時間」を中心にできて、自分の行動や実践と「時間」の関係をうまく結べる天才的な人もいますが、つい思考による停滞を招いている人には「時間」という概念を必要に応じて取り入れてもらえればと思います。

 

昨日、ある漫画家の人が龍谷大学に来て行った講演に行かれた方の話しを聞いたのですが、本やネットで受け取っていた感じが変わって、新しい関心や興味がわいてきたそうです。

 

そのことを「時間」の種としてのイメージを通すと、自分も知らなかった種に必要な条件が満たされ、新しい動きがはじまったととらえられます。その新しい動きは種が発芽して生長していくように、これからも続きうるものではないかと思います。

 

自分をたくさんの種が埋まった庭のようであるとイメージすると、そこには自分も知らない種があります。自分の知っている自分の力が今足りないからといって打ちひしがれることはないのだと思います。種のほうから自分になにかの兆しとして打診がきます。その兆しに気づき応じられるように、自分を追い詰めず、なるべく強迫的な状態を減じて整え、待つことが重要なのだと思います。状況を展開させるのは、非力な自意識の力ではなく、種の自律的な展開の力であると思うからです。

 

既知の自分がどれだけ正しいことを考え実行するか、どれだけ能力があるかが自分のこれからを決めると考えると、自意識は追い詰められ、種からの打診や兆しに気づかなくなります。逆に種である「時間」を信頼できるようになると、自意識は余裕をもち、地に足がつき、種の自律的な生長展開をサポートできるようになります。

 

既知のものにしがみつくことは、実のところすでに追い詰められた結果として現れる症状ではないかなと思います。自分のなかには見えないけれど既に動こうとしているものがあり、それが自分を閉じた閉塞から新しい状況に導いてくれることへの信頼を深めると生きていることの感じかたはまた変わっていくと思います。