降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

小沢牧子『「心の専門家」はいらない』 個人の回復と社会の回復

不登校50年で小沢牧子さんのインタビューをみた。

小沢健二の活動や彼の社会臨床学会での「企業的な社会、セラピー的な社会」の発表も、母からそのままの流れぐらいに見えてしまった。実のところは知らないけれど。

根本的なところの批判をしている。不登校の子どもを持った親たちは国家に対して対峙しなかった。それがひっかかりとしてあったと。


futoko50.sblo.jp

 


小沢:これも、いまになって言葉になるんだけど、不登校の運動には何か引っかかるところが、ずっとあったんです。折々に感じる、これはちがうなという印象。それは、そこに親の側の学校依存、国家権力依存を感じていたんだと思います。
 今回、教育機会確保法案の展開で、それがかたちになって出たように思います。学校制度や専門性や国家のあり方を正面から問うのではなくて、そこに依存している。フリースクールを制度として認めてもらいたい、子どもを不利な目にあわせないでもらいたい、という権力依存。国家というものの本質がわかっていないというか、そこを避けている。きちんと対峙する気持ちがなければ、運動なんて実っていかないですよ。これじゃあ元の木阿弥だと、私は感じてます。
 子どものほうはわかるんです。学校が苦しいんだ、イヤなんだということで、単純です。子どもはちゃんとノーって言ってる。そこで親も、子どもといっしょに、まっすぐ向き合えばよかったんだと思います


本の方は2002年のものなので少し昔の本だ。

 

「心の専門家」はいらない (新書y)

「心の専門家」はいらない (新書y)

 

 
僕は「心理学」については、大学に入った当初はこれを学んでいけば自分の知りたいことがわかったり、近づいていけるのだろうと思っていた。だが、大学にいるうちにこれではないと思うようになった。自分の知りたいこと、近づいていきたいことにとっては、あまりフィットしていない。問題意識が違う。

このブログでも何度か書いたけれども、臨床心理学は基本は心理カウンセリングという技法の学問だ。それはカウンセリングルームのなかの話しであり、セラピストとクライアントの話しであり、不適応になった人を適応した状態に戻す対症療法の話しだ。その外はあまり見ようとしていない。その知見は限定的過ぎて自分の参考にならない。

一方、専門家ではない当事者同士が対話を重ねることによって和解し、回復していくという修復的司法のほうがよっぽど社会的な意義が深く、比較すれば追究すべき知見は明らかにこちらだと思った。あるいは映画ライファーズのように自助グループによる回復は関わる人全員が変化していくものだ。ある問題は社会を変えるきっかけであり、それに向き合うことによって関係者を含め社会は変わっていく。それをカウンセリングルームに閉じることは、社会が変化するせっかくの機会を奪うことになる。

taiwanokai.org



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小沢のこの著書のなかでは、自身も患者体験をもち、『”狂気”からの反撃』や『「精神障害者」の解放と連帯』の二冊の単行本に加え、多くの論文や学会での発言を行った吉田おさみの言葉が紹介されている。

心理療法といいカウンセリングといい、やはり社会に合わせるように個人を変えることのみが目標とされていて、そこには社会を変えていこうという意図は見られません。(略)カウンセリングや心理療法は常識的生き方に患者を導くとすれば、それはやはり現状肯定的といわれても仕方ありません。問題は周囲社会と本人との間隙を、本人を治療することによってのみうずめるのではなく、本人が主体的に周囲を変え、その中で自分も変わっていくというダイナミックな変革形態こそが必要なのです」(「患者の立場からの発題」『臨床心理学研究』十四卷三号) 


人間は今自分が生きている環境から、支配的といっていいほどの大きな影響を受けると思う。その環境には自分の身体の外の環境と、外の環境の影響が内在化し、身体と連動した内の環境のがあると思う。そして一旦外の影響が内在化されてしまうと、内在化されたものによって世界は価値づけられ、彩られるようになる。

 

内在化したものが今後も生きていくにあたって本人にとっても不都合な場合は、それを変えていくことが求められる。内在化した環境を変えていくのに必要なのは、再び外の環境だ。しかしもはや内在化されてしまった認知フィルターが世界を価値づけているので、それを破綻させるには条件を整えなければいけない。

その条件は、まず攻撃や侵害を受ける心配がなく、評価のような強迫的にはたらくものが打ち消されており心理的、身体的安全が保証されていること。次に今の認知のあり方を決定したリアリティが喚起され、呼び起こされていること。そしてその上で自分のなかで決定されてしまった「現実」は、少なくとも信じているようなものではないということがありありと目撃され、体験されること、あるいは今まで感じていたことではない、別様のものにずらされて体験されることであると思う。

「生き直し」と呼ばれるようなものになぜ回復的効果があるのかは、この内的なリアリティをよび起こし更新するためだと思う。外の環境において、自分で昔のリアリティをひきおこす環境を構成し、かつてとは別の体験として更新することは有効な回復の手段なのだと思う。

また特定のネガティブな体験の更新ということではなくても、自分にとって興味関心が高まっているもの、世界認識や世界との関わりにおいて重要な位置をしめているようなものを通して、既知のものでない新しいものに出会った時も内在していた世界の固定的な価値の序列構造が更新されるので、回復的な効果がある。何を用意し、どんな体験を自分に与えてあげれば世界の感じられ方、生きていることの感じられ方が更新されるのかということを感覚的につかんだ人は、自分の工夫でより速やかにその更新を繰り返すことができる。

自給やDIYの意義の核心は、自分が生きているこの環境の何に働きかければ自分にとっての世界の感じられ方、体験のされ方が変わるのかということを実験しながらつかんでいくことだと思う。あることをすることによって、自分にとってどのようなリアリティが呼び起こされ、自分の内の世界が更新されていくのか。それを確かめつつ、実践し、更新していくのが自給であり、DIYであるのだろう。

自給、DIYは閉じた環境のなかで個人的に完了することではない。それは常に他者に働きかけ、他者を変えつつ、自分も変わるものだ。個人の回復に向かう力は、閉塞し固まろうとする社会の殻に亀裂を入れ、社会を人間的なものに更新する力ももつだろう。