降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

フレイレから「生きづらさ」を考える

あらためて、フレイレを通して「生きづらさ」を考えてみるとどうなるだろうか。まず「生きづらさ」という言葉について、『居るのはつらいよ』の東畑開人氏はSNS上で次のように述べている。

 

「生きづらさ」という言葉って、心理学ブームが下火になり始めた2000年代になって使われ始めてます。この言葉は、心を云々するではどうにもならない、社会の側の要因を指摘する言葉なんです。そして、その要因とは、社会の問題を個人の心に還元する社会のありようのことなので、心理学はつらい立場です。

 

問題は、個人の内面で完結しているのではなく、社会構造の側にあるという認識だ。臨床心理学の立場の人が自らが依拠している前提を根本的に問い直すことは非常に重要なことであると思う。

 

(「居るつら」本などを読んでいると、たぶん東畑さんが心理学というときは臨床心理学のことで、セラピーというときは心理カウンセリングのことのようだ。心理カウンセリング以外にも多種多様なセラピーがあるのだろうけれど、本を読んでいると心理カウンセリングがセラピーというものを代表するものみたいな錯覚がおきた。)

 

フレイレは、社会を既に決まったもの、完成したものとはみなさず、変化の過程にあるものとみなす。だからフレイレにしてみれば、「社会はこういうものだ」とか、「現実はこういうものだ」とか、そういう言葉は単に今の社会を固定的なものとして考え、それを押しつけているということになる。

 

フレイレにおいては、社会が変容していくことは必然であり、そのために人が、特に今の社会構造のなかで非人間化されている人が、自らを人間化する過程で社会を変容させていくことが求められる。

 

フレイレによると、社会を変えられるのは、そのような人たちの弱さの力であり、力を持たないものの力なのだとされる。

 

被抑圧者が自らの人間性を取り戻すための闘いは、同時に新しいものを創造するということでもあるのだが、このプロセスにおいて被抑圧者が観念の上でも現実の場でも、自らが抑圧する側のまねをするのではなく、抑圧者、被抑圧者、双方の人間性を回復しようとするとき、その闘いは意味をもつ。これこそが被抑圧者の大きな役割であり、抑圧者の歴史の課題である。つまり、自らの解放のみではなく、抑圧する者も共に解放する、ということだ。被抑圧者の無力さから生まれる力が、抑圧する者とされる者を共に解放する力をもちえるのであり、暴力に頼る抑圧者はこういう力をもつことはできない。 パウロフレイレ『被抑圧者の教育学』

 

 

たとえば日本でも50年ぐらい前であれば、重度の身体障害を持った人は家で大人しく「いい子」にしているのが当然であり、遊びに出歩くなど不届きであるという価値観が一般的であったという。障害のない人ができる仕事ができない人は人として自由を制限されて当然であるというのが社会の一般的な価値観だった。

 

自由に外に出られるのは働いていることの引き換えなのであるという価値観。障害がない人の一部が仮にそのような社会に息苦しさを感じていたとしても、自分たちは「働ける」ので、社会のその価値観を変えるのは難しい。たとえそこに疑問を感じていても、自分が自信を持って自由に外に出歩けるのは働いているからだというアイデンティティもある。

 

ある条件がついたときだけ、人は自由に出歩けるような人間であることが認められるのであり、その条件を満たさなければ一人前ではないし、一人前の自由は認められない。これは実質的に「人間」と「人間以前」が作られているということであるだろう。

 

こう書いていると今でも自由の引き換えはこれだとか、そういうバックラッシュ(それまで自由にされてなかった人たちが自由になったことによって、自分たちが今まで持っていた「権利」が侵害されたり制限されたと考える人たちによる、自分たちのかつての大きかった顔を取り戻そうとする被害者面をした社会的反動)は常に存在している。

 

自分たちが人間になるために条件を満たさないものを「人間以前」にし、非人間化し言うことを聞かせようとする社会的な圧力は何も変わらないと思うのだけれど、少なくとも今は重度の障害のある人が外で出歩いていても不届きだというのは一般的な価値観ではなくなっていると思う。

 

既存の社会において当たり前のこと、つまりこの条件を満たしているから自分は人間として価値があり、人間らしく扱われているのだという「条件つき」の人間像が「条件なし」で人間である(少なくともかつてあった「人間」であるための条件の一つがなくなる)ようになること。

 

これが力を持たない人の力であるのだと思う。つまりいくつもの条件がついたうえでようやく「人間」になれていたところを、その条件がなくても「人間」であるということが社会環境の基準になるのだ。

 

今、価値を奪われている人、実質的に「人間以前」と見なされ、扱われている人たちの人間化のための社会との闘いが、社会をより人間的なものとして更新する。

 

以上のように考えると、まず「生きづらさ」の問題が検討されるためには、既存の社会において何が人間であるための条件となっているのか(それはたとえば「空気が読めること」だったり、「人に迷惑をかけない」ことであるかもしれない。)を明らかにすることからはじまるのではないかと思う。

 

抑圧されている人は単に状況が変われば自由になるのではなく、内面の価値観も侵食されているため、自身の内面化された価値観からも解放されていく必要がある。そうでなければ、よくいる成金のように、よりいっそう自分より下の人たち(結局かつての自分なのだけど。)を貶めたり、攻撃しなければ自分がかつての「人間以前」に戻ってしまうような強迫を抱えたままになってしまう。

 

今現在の社会の人間であるための条件が明らかになったならば、そのようではない社会環境を小さくとも作り出していくことが次のステップなのかと思う。人間は人間であることによって人間になっていく。まずは自分に対して、自分たちに対して、誰かをおとしめることなく、人間になれる空間をつくりだしていく。

 

既存の秩序、既存の価値観に閉じ込められたところから、その外にでる。環境を作りだすことによって自分が変わる。そして変わった自分自身に必要なものを提供するためにまた環境を変えていく。この繰り返しがやっていけるのかと思う。