降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

本の作成6 大学生時代 臨床心理学への疑問 四国遍路

昨日の投稿を書き終わったところで、何か独特の満足した感じというか、整ったような感じがあって何だったのかなと思う。欠損を持っているひけ目、そして人との隔たりを超えたいというのが自分の願いだということが割とはっきりした感じがあったからだろうか。

昔のアニメ、妖怪人間ベムで子どもの妖怪ベロの「早く人間になりたい」というセリフがあったが、実感では、自分のほうは「早く」も何も今後も妖怪人間のままである感じだ。感覚の違い。異形感の強さ。自分への蔑み。

 

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ゼミで認められたことは自分にとって大きかった。進学することへの希望を持った。だが自分の問題意識、人はどうやって生きていけばいいのか、どうやって個人として回復していけばいいのかというようなことに関心があるような環境は周りになかった。

 

ある時、終身刑者がセルフヘルプグループを作って回復していく姿を描いたドキュメンタリー映画ライファーズ」が大学で上映された。勉強している臨床心理学のカウンセリングではなく、NPOが作ったプログラムはあるものの、心理の専門家でない受刑者がお互いのやりとりによって回復していく。自分が知りたいのはこちらの方だった。専門家でない個人がどうやって変化し、回復していけるのか。これこそ心とはどういうものなのかを確かに提示しているのに、心理の先生方や周りの学生たちの反応は薄かったように感じた。

 

臨床心理学は、ほぼ心理カウンセリングという技法についての学問であって、演劇的手法なり自然体験を通したグループワークなり、たとえ人の変化にとって有効であってもカウンセリングでなければ、メインストリームからかなり外れた傍流であり、あまり真剣に探究されておらず、ほどほどにしか相手にされていないようだった。「心の専門家」というような言い方は本当に言い過ぎで、「心理カウンセリングの専門家」と言うべきだと思った。

 

クライアントはいわば社会の歪みによってクライアントになっている。だがそのクライアントをその元の社会でやっていけるようにするのがカウンセリングだと思った。確かに回復はするかもしれない。しかし、心理の人たちがそもそもの社会の歪みに対して問題意識を持っているような空気をあまり感じなかった。

 

進学するにしても、臨床心理学とは別の道を行こうと思った。それぞれの個人が当事者としての自分を回復させていくための知見の蓄積が学問としてあればいいと思い、むしろそれこそ社会に必要なのではと思うのだが、そこにダイレクトにそこに繋がるものは見つからなかった。

 

3年生のとき、4年生たちの卒論発表会があり、それを聞きにいった。四国遍路をテーマにしている人がいた。発表を聞いてみると、四国八十八ヶ所めぐりが自分のイメージしていたものより興味深いものだったことを知った。行くことを決めた。大学4年生になり、10月2日から11月9日までの40日間をかけて四国をめぐった。

 

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