降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

学びほぐしをすすめる媒体としてのDIY 

オープンダイアローグにおいて、斎藤環さんは2年ほどの訓練で対話の場を囲む人になれると指摘する。それで臨床心理学の人にもぜひ加わってもらいたいが、1対1のカウセンリングのスタイルでやってきた人たちはそこに消極的だという。

 

futoko50.sblo.jp



山下 しかし、オープンダイアローグというのは、私の感覚からすると、これは医者でなくともできるのではないかと思ったのですが。

斎藤 その通りです。不登校、ひきこもり支援の重要なポイントは、まさにそこなんです。数年の研修を受けた半専門家でよくて、ほんとうは医者はいらない。携わるのは、たとえばスクールソーシャルワーカーでもいいし、スクールカウンセラーでもいい。スクールカウンセラーは山ほどいるわけですから、ぜひ参加してほしいんですけど、心理士は個人精神療法の訓練を受けてきているので、チームでやりたがらないんですね。これがネックになっています。オープンダイアローグは、研修を2年くらい受けたら、誰でもできるレベルの技術です。精神医療のほとんどは、その程度のトレーニングとケアで十分だと思っています。精神科医の存在意義は、全体のごく一部を占める精神疾患発達障害の鑑別と治療的対応、あとは治療や支援の結果に責任を負う立場というくらいでしょうか。

 



実際のところは知らないが、斎藤さんの言う通りだとすると、いまだに心理カウンセラーを称して使われる「心の専門家」とはいったいなんだろうと思う。人の回復が優先ではなく、自分たちのスタイルが優先なのだろうか。



日本臨床心理士資格認定協会の序言にはこうある。

臨床心理士とは | 公益財団法人日本臨床心理士資格認定協会

 

臨床心理士」とは、臨床心理学にもとづく知識や技術を用いて、人間の“こころ”の問題にアプローチする“心の専門家”です。 

 

心理カウンセリングの専門家とは言ってもいいかもしれないけれど、引用符付きであっても「心の専門家」の標榜は誇大過ぎだ。一技法を前提にしたとても限定的なものなのに、あたかも心が何であるかを知っているようだ。もし心の専門家が心を知っているのなら哲学も宗教もいらなくて、何かあればその「心の専門家」に聞けばいいはずだ。場づくりも組織作りもまちづくりも「心の専門家」に意見を聞けばもっとうまくいくのではないか。しかし、実際は全然そういうものではないはずだ。

 

「社会生活の不適応」に対して心理カウンセリングをしている。だがその「社会生活の不適応」というのが社会の側の問題なのかどうかは問われない。賃金労働できる生活に戻ればそれでいいのか。それが治ったということなのか。心理カウンセリングを前提視するところにそういう問いはない。

 

学生の時の僕は、どう生きればいいか知りたかったし、知っていったことを生きるということをやっていきたかった。そしてそれは僕だけではなく、僕以外の多くの人もそうしたいのではないかと思った。そちらを知れば病になるまで自分を放っておいて、病になればケアを外部委託するよりいい生を送れるのではないか。

 

そういうことはどう知れるのか? それを探ってきた。

 

自分の根源的な苦しみに対する反発の力、それが個人の強い動機となり、充実の軸となっていることだと思い至るようになった。

 

そして個々に必要なのは、世界と直接つながり、働きかける存在になり、そして自分なりの繋がりをひろげていくこと、自分なりの環境を作っていくことだ。そのサイクルを繰り返すなかで、認識の更新がおこり、自分の感じ方、考え方が変わっていく。単に良くも悪くも変わるというのではなく、より自分に着地し、世界との応答性、対話性が増進されていく。

 

自分のまさに「やりたいこと」は、間接的にされてしまっている世界との繋がりを直接的なものにしていくプロセスにおいて、活性化していく。自分の求めを知り、その求めに可能な限り応答することで、自分はより自分となっていく。

 

いきなり自分のやりたいことを知り、実行しなければいけないのではなく、自分なりの世界との直接の繋がりを広げていくことで、それまでに身体化された自分の無さ、抑圧はだんだんに取れていく。何か知識をえたからといってすぐそれになれるわけではない。自分が自分になっていくためには、実際的なリハビリが必要なのだ。

 

鶴見俊輔は学びほぐしという言葉を使う。一旦内在化し、固まってしまったものをほぐすものが必要だ。自分の生や感じ方を決定している枠組みは何か。それを知り、その枠組みを変えていく。そのことによって、個人はとらわれて変われないところから脱していくことができる。DIY的学びは、その学びほぐしのための媒体として最適だと考える。

 

僕は自分で話しの場を作りたいと思った。どこに行っても話しを聞くということがまるでなされてないと思ったからだ。だから場を持った。自分なりに場をどのように作り、どのように運営し、自分に必要な体験を提供していくのか。それが即ち学びほぐしの実践そのものであり、より自分が必要なものを知っていく実践となる。

 

必要な体験を自分に提供していけば、個人はさらに必要なものを得る力を増していく。必要な体験は自分が充たされるたびに変わり、そこに応答していくためにはまた環境に働きかける。その繰り返しをすればいい。

 

専門家はレスキュー隊としてあればいいのではないだろうか? 一般の個々人は、緊急事態でない限り、レスキュー隊ほどの知識や技術はいらない。普段はレスキュー隊を求めていない。個々人が普段に必要な学びは、自分が自分になっていくためのリハビリの場所に繋がり、そしてそういう環境を自分の調整で作れるようになっていくことだ。その時充実は、達成よりもその過程自体にあらわれてくる。

 

親問題をすてない|宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ|専門職応援|介護・福祉の応援サイト けあポ



「私たちが生きていること、やがて死を迎える自分の問題を探し当てることを学問のひとつの道と認めるならば、そこに育つ学問は民間学である。」(『民間学事典』「刊行の言葉」)/字義どおり読めば、民間学は、「親問題」を探し当てる道として成立する、と述べられている。だが、そのためには、これまで述べてきたように、「子問題」に専心させられてきた(現に専心させられている)没主体としての自分を認識し、その状態からの離脱を目指すことが不可欠である。自らが生きて「いま・ここ」において感覚している世界に軸足を置きなおすことが必要である。これを鶴見俊輔は、「学びほぐし」という言い方で表現している。受けとらされた既成のセーターを一度ほぐして糸にし、自分のからだに合ったものに編みなおすという例で鶴見俊輔はこの言葉を説明している(『教育再定義の試み』)。問題探し、問題づくりの主体を自分に取りもどす基本的作業のことである。/現代において、民間学とは、「親問題」の取り戻しのことである。右の鶴見俊輔民間学の定義は、自分という固有の経験(痛み=『教育再定義の試み』)を問題の起点として大切にするゆえに、このような主体の取りもどしを不可避のものとして要請せざるをえないのである。

 引用中に「親問題」「子問題」という鶴見俊輔の用語が出て来ます。「親問題」とは、人の生涯において投げ込まれ、それを探りあてようとして、取り組むことになるはずの「自分の問題」を意味します。また「子問題」とは、簡単にいえば学校が要求する「いい子」になるための問題のことです。鶴見俊輔にとって「母親」問題はぜひとも解決しなければならない人生問題であったこと、また両親は自分を生み出す母胎であったことを鑑みれば、この二つの用語の必然性を納得はできます。しかし、直感的に分かりにくいと思われるので、私なりに言い換えておきます。「親問題」とは生涯における切実な「自分にとっての問題」のこと、「子問題」とは学校がおしつける「学校にとっての問題」のことです。