降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「この会話を通して、自分も刑務官も心理士もみんなが人間になった」 「責任」から応答へ

ジャンル難民学会発表会、先のイタリアの精神病院の解放や入管法の発表は吉本草蔵さんのものでした。

 

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

吉本さんの発表は、発表が終わっても日に日にしみこんでくる内容でした。イタリアや入管の話しに加えて、矢原隆行さんの書かれた文章から、リフレクティング・トークというかたちで刑務所内での話しが行われ、そこで受刑者が「この会話を通して、自分も刑務官も心理士もみんなが人間になった」という発言をしたことが紹介されていました。

 

www.ryukoku.ac.jp

 

「人間になる」ということはどういうことでしょうか。刑務官や心理士もまた、それまでは人間でなかったのでしょうか。

 

パウロフレイレは、人間の本質は抑圧的状況からの「移行状態」にあると指摘しました。これまでの古い、自他への抑圧を抱えた状態から、その抑圧を解放していく移行状態を人間の本質とみるとき、自分は既に何かをやっているとか、生物学的にヒトだとか、どこかの文化圏に属しているとか、犯罪を犯していないなどという、既に自分がそうであることは関係ないのです。

 

(これは「回復は回復を続けること」という言葉にも通じます。)

 

今ある状態、自分の持っている価値観に抑圧があるとは、多くの場合人は認めたくありませんが、それに気づき、認め、そして対話(更新に向けた世界とのやりとり・抑圧をかけている自分の内側の状態に対する応答)によって、自身を更新していく時には「人間になる」ということなのだと思います。

 

すると、人間は自分が人間であることに責任をもつ必要があります。既にある自分にあぐらをかいているときは、「人間」ではないのです。

 

強い抑圧を内在化させざるをえなかった孤独な人、厳しい疎外状態にあった人が、周りとともに回復していくとき、周りの人はそれまで単に自分がたまたま環境に恵まれ、その余裕があるために、かえって自分が安易な抑圧(自分のなかにある何かを見ないようにして押さえつけること)を用いて、自分を無視し、自分への向き合いをやり過ごしていたことに気づくのです。

 

人間という言葉が使われるときは、自分が社会から付与された役割上の「責任」、職業上の「責任」だけに限定されず、自分を含めたまるごとの世界全体に対する「応答」することが求められています。自分の責任はこれだけだと高を括ることは、自分とその自分が生きているまるごとの世界に対する「応答」を放棄することであり、実際には無責任になることなのです。その態度は周りの環境だけでなく、自分自身を疎外していきます。世界を倦み、不寛容になり、自滅的な独善性の檻に自ら深く入っていきます。

 

自分が想定している、あるいは持っている「よい自分」「認められる自分」という「あるべき」自己像が下がらないように何かをするのではなくて、誰もが人間になっていくことが必要であると思います。

 

どんなステータスを得ても、今の自分にふんぞりかえっていて、移行状態に入っていないならば、自分は人間になる前の状態です。また一度移行状態に入ったからといって生きている間、繰り返し移行状態に向かうことを続けなければまた人間ではないのです。

 

動いている水は腐らないという言い方があります。その科学的真偽は知りませんが、人間というのは移行状態という「動き」や「プロセス」のことをさし、周りの世界や人との応答性を回復していく存在になることをさすのではないでしょうか。

 

今の自分に移行状態を提供することが、人間が人間になるための責任であり、応答なのだと思います。応答することは、世界に対する信頼の感覚を回復させていきます。それは、世界との応答性を疎外している自分の殻から解放されていくことでもあると思います。