降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

親開きとリフレクティング

シェアハウスの住人にホホホ座のフライヤーをもらう。

 

【イベント・4/28〜5/14】ホホホの母の お店展 | ホホホ座

 


ホホホ座関係者のそれぞれのお母さんが手づくりの物など出品しているみたいで、これは佐久間さんと砂連尾さんたちのご両親を招いた場開きみたいだなと思った。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

勝手にこれは「親開き」だと思っているけれど、親開きは誰もができるわけではないかもしれないが、コミュニケーションのあり方が一定になり、なかなかそこから変わりにくい親子関係もそこに第三者が入ることによって変わっていく。親の友達が来たりするのもまたいい。

 

昔、ようこそ先輩というNHKの番組で庵野秀明さんが母校にやってきた。彼が子どもたちに与えた課題は、小さい頃の庵野くんがどんなだったかを庵野くんの近所の人や関係者に訊いてこようというもの。状況を生かすとはこういうことだと思った。自分で行かなくていい。

 

だが効果は大きそうだった。監督が思っていた以上に近所の人の見守りがあったり、思いがあったのを知ることになった。

 

オープンダイアローグという対話の手法のなかに人が自分について話しているのを聞くリフレクティング・プロセスという技法がある。場にいる誰かについて、その人以外の人が対話をするのだが、その時本人はその話しに介入しないで、まるでテレビから話しが流れてきたように聞く。話している方も本人を見つめたり反応を求めたりせずに話す。そのことによって話すほうは話しやすく、聞いている方も反応しなくていいので、楽に聞ける。

 

 

庵野さんはいわば小学生にレフレクティングをやってもらったわけだ。自分は直接その人から聞くのではなく、小学生を媒介して聞く。

こう思われているだろうなと思っていたことがそうではなかったり、あるいは思いもしなかったことを知ると、自分自身に対する普段の感じ方が変わる。自分というのは「誰か」の目に映っている自分としてある。

 

 

一対一の話しはインパクトも強く、良し悪しあると思うけれど、パターンにはまり、硬直的にもなってしまう場合もある。それぞれのあり方で、やりやすいよう自由に考えて第三者を媒介させた場をつくることには実りの多い可能性があるのではないかと思った。

 

「対話しよう」と場をもってもいいだろうが、佐久間さんと砂連尾さんのようにダンスだったり、前回は野村誠さんもおられたので音楽だったりでも十分面白い変化がおこると思う。「対話する」というと何か問題があることとセットみたいに思われてしまう場合もある。

 

プロでなくても素人でもできる紙芝居とか、演劇とかでもいいのではないか。多分その場合も他人の話しでなくて自分とか家族のストーリーの方が良さそうな気がする。

 

親子として場に開かれることだけでそれまで固定的だったパターンや秩序が様々に解体されるだろう。親にとっての子はどう見えるのか、子にとっての親はどう見えるのか、場にいる第三者にとってのその親子はどう見えてくるのか、それぞれの見え方がシェアされ、それらが多重に照り返(リフレクティング)されている場では、親にとっての子、子にとっての親、第三者にとっての親子に対するイメージは変わり、それに伴い関係性も変わっていくのではないかと思う。