降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

観察 

お世話になった人で、療養中の人に1年ぐらい連絡をとっていなかった。

 

お世話になったからお返しをしなければいけない、と考える。「お返しをする自分」を思考上では標準設定していて(これが問題なのだが。)、そうしない自分に後ろめたさを感じ続ける。しかし、体は動かない。連絡しなければなと思いつつ、それを忘れようとする。

 

「お世話になった=返礼をする自分」という自己イメージが成り立たない。そこで出てくる不安がある。人に自分の冷淡さを知られたら見捨てられる、態度を変えられるその不安。言うまでもなく、別に人を心配をしているのではなく、自分の状況が悪くなるのを心配しているだけだ。

自分のコントロールでどんな幻想を維持しているのか。身の丈をこえて、できないことを自分に課しているのは間違いない。自分はそんな殊勝な人間ではないのに。

 

「自分がやっている」から「今の秩序」が維持されていると感じる幻想。この幻想にのっとり日々の行動の調整をしているわけだ。

ダンジョン・マスターという古いゲームのキャラの肩書きにdawn keeperというのがあった。日の出を自分が見守るから、日の出はつつがなく毎日すすむという考え。

 

これはこれで深い意味もあるのだが、日々の幻想という卑近なところに話しを持ってくるならば、自分の力をあまりに大きく設定していて、それが本当は直結していないのに、世界の運行と直結しているととらえ縛られ苦しむ。


今回の連絡しないケースもこの型だなと思う。実際は身の丈をこえた理想的なやりとりによって関係が維持されているという幻想があって、しかしそのやりとりを自分はできていない。よって、自分はその人のことを大切に思っていない(しかし大切に思わなければいけないのか? また大切に思うとは実際何をやることなのか?)。あるべき姿と乖離している自分に苦しみ、また関係性の悪化、見限られることを恐れ、エネルギーが減っていく。

 

どうやら最初に、自分は人間を大切にできないから、補わなければならないという信念があるようだ。自分が人と関係性を持つには、強い補いがいるという信念。だがこれが無理をよび、余計人との関係を遠ざける結果につながる。連絡が延び延びになるのは、現実との直面を避けるためだ。

 

連絡してみると、別に相手の方は気にしていない感じがある。連絡しないとはどういうことなんだとか、何だ今更、みたいなこちらが想像している反応はない。独り相撲だ。

現実とのギャップ。人が自分に対して優しいのは、自分の振る舞いが差し当たり成り立っている間だけで、長時間の関わりになると相手への無関心がバレて破綻する。長時間いるようなことにならないようにするとか、決まったことだけの関わりにするとかで対応するというのが、信念に根づいた行動パターンになっている。

 

生きていけるのは、自分として認められるのは、求められる適切な振る舞いに応えている間だけであり、生きることは、出題される課題に無理やり応対させられていくことという、主体を奪われた信念の呪い。当事者研究で、この辺りを見ていければいいか。