降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

当事者研究in鈴鹿

鈴鹿当事者研究をやってみようという話しになった。

 

当事者研究とは

当事者研究」は、北海道浦河町における「べてるの家」をはじめとする起業をベースとした統合失調症などをかかえた当事者活動や暮らしの中から生まれ育ってきたエンパワメント・アプローチであり、当事者の生活経験の蓄積から生まれた自助-自分を助け、励まし、活かす-と自治(自己治療・自己統治)のツールである。
当事者研究では、当事者がかかえる固有の生きづらさ-見極めや対処が難しいさまざまな圧迫感(幻覚や妄想を含む)、不快なできごとや感覚(臭いや味、まわりの発する音や声など)、その他の身体の不調や症状、薬との付き合い方などの他、家族・仲間・職場における人間関係にかかわる苦労、日常生活とかかわりの深い制度やサービスの活用レベルまで、そこから生じるジレンマや葛藤を、自分の”大切な苦労”と捉えるところに特徴がある。そして、その中から生きやすさに向けた「研究テーマ」を見出し、その出来事や経験の背景にある前向きな意味や可能性、パターン等を見極め、仲間や関係者の経験も取り入れながら、自分らしいユニークな発想で、その人に合った“自助-自分の助け方”や理解を創造していくプロセスを重んじる。 当事者研究ネットワーク | 当事者研究とは-当事者研究の理念と構成- (向谷地生良)

 

当事者研究浦河べてるの家ではじめられたものだが、精神障害に限らず様々な「苦労」を自分たちで取り組み、状況をひらく可能性をもっている。最近では熊谷晋一郎さんらが発達障害の人や薬物依存の人たちと共に当事者研究の裾野を広げているようだ。

 

当事者研究的なことは数年前にもやっていたのだけれど、あまり掘り下げることができなかったのだが、鈴鹿アズワン・コミュニティのスクールに何度か行くなかで、焦点をもってやれるかなという感じになった。アズワンのスクールでは、自分の認知のあり方を観察できるようになっていく体系ができており、観察によって自分(たち)で自分の感情的な自動反応を取り除いていく実践が行われ、その効果が目に見えるかたちで現れてきている。

 

自分の当事者研究のテーマとして、「言い出さない」ということから始めてみたいと思っている。僕は、人が話していたらまずそれをきく。色々思うことがあっても言い出さない。自分の気持ちや感じていることなど話すのには引け目がある。一方で無用だと思う話しとか、話しをお互いのキャッチボールではなくて自分がピッチャーで相手はキャッチャーだと思っているかのような一方的な話しをする人にイライラする。また話し出せないことによって気が鬱屈する。これがまた話し出さないサイクルを生む。

模造紙を使い、これら一つ一つの要素をマインドマップのようにつなげたり、そこから新しく発見したことを書いていった。

https://www.instagram.com/p/BImUKzfBw2z/

当事者研究の試行


そもそも言い出さないところには、否定的な自己観がある。自分の気持や感情など言い出すことには価値がないと認知していること、また他人と軋轢や緊張を生むことを回避する。否定的な自己観があり、それを隠したり、表に出さないために意識的な努力をする。だがその努力に終わりはなく、また状況や人を自分がコントロールすることはできないので不毛であり、疲れや自己否定が募る。

自己観には、子どものころ、親が居ない間にやってきて無理やり組み敷いてキスしていた親族の存在が大きく影響しているようだ。その親族の気持ち悪さ、無神経さ、人の心や自身のあり方を客観視できない鈍感さ、自己中心性などを心の底から軽蔑したが、その親族の「ようではない」ことが自分が自分たる価値であり、自分のアイデンティティになっていた。すると結局、隠れた自己イメージはその親族になってしまっているのだ。アンチとしてしか自分の価値が存在しないのと同時に、いつでも自分の振る舞いによってその親族の性質と自分は同一化してしまう。

・あるべき自己観(自分=親族と逆の存在)→気持ち悪くない、無神経でない、暗愚でない、自分をわきまえる
・隠れた自己観(自分=親族)→気持ち悪い、無神経、暗愚、自分をわきまえない

 

そして、隠れた自己観からできるだけ離れるためにありとあらゆる努力をしようとするのだが、その具体的なやり方は「しない」ことだった。「する」ことには能力的な限界や難しさもあるが、「話さない」とか「嫌なことをしない」とかなどの「しない」ことはコントロールできる。「わきまえた」とは「しない」ことだった。だが、「しない」ことによって気持ちは鬱屈し、自己否定感は強まり、余計自分を表現しづらくなるという悪循環がおこる。


・否定的な自己観への慣習的対策と無限ループ

→「しない」こと、我慢することによって自己観を保つ

→「しない」ことによる鬱屈した気持ちが自己否定感を募らせる、自分の状態に鈍感になり、自己一致ができなくなる 

→適切な行動がとれない(人に譲る、自分で自分の状態をよくする責任を放棄する)

→混乱し、満足できず、自己否定感が募る

→低まった自己の価値を高めようとする反動がおきる

→「しない」ことによって高めようとする

 

「しない」ことは、多くのことにつながっていて興味深く、もう少し掘り下げていきたい。

 

自分のなかで人(とのやりとり、特に感情的やりとり、損得の入ったやりとりなど)を回避することが「安全だ」と認識されている。人とはいいところだけを見せてないと危ない存在だという態勢になっている。一方で人を避けていることは人に知られると、人はこちらへの態度を悪化させるから避けていることを知られてはならない。バレるのを恐れる。これはどうなっているか。

 

人を避けることによって、人に自分の「見栄え悪い」面を見せなくてすむ。他人の頭のなかの自己イメージを肯定的に保つために、関わることを避け、つきあいたくない「実際の自分」を見せてはならない。「見栄えが悪い」面を人に見せることにより、人と人との間のなかで生きていくのが困難になる恐怖がある。


・人が見える→ああ、どう対応すればいいのか(適切な振る舞いができなければ危機!)→不安・緊張→何がしかの判断→対応→あまりうまくいかない感じ(緊張や不安が相手に見える・知らないふりで行き過ぎてもその自分に何か後ろめたさや情けなさを感じる)→人にあうのを恐れる→うまくいかないサイクル

・そこにある自己イメージ →自分は失敗する うまく振る舞えない 必ず悪いイメージを与える 人といると緊張し、その緊張が相手に伝わって避けられる 関係が悪くなると自分で修復できない

・人→ 自分の振る舞い次第で敵になる(潜在的な脅威)自分の振る舞い次第では脅威でなくなる この人の頭のなかにある自分のイメージを自分でコントロールできる 

 

整理していくと見えてくるものがある。この場面において、「自分はできない」という否定的自己イメージに脅かされているのが前面に出ているが、同時に幻想の自己イメージがある。コントロールできる自分。うまくこなせる自分。そういう高みからみたときに「失敗」はあるわけだ。「失敗」がなければその幻想に浸れる。事実に直面しなければ甘美な幻想のなかに生きていられる。しかしその幻想はあまり意識化されていない。人を避けるというなかには、幻想の自己イメージを守るということがある。ではその幻想の自己イメージはなぜ要請されるのか。

続く。