京都テルサで行われた国際障害者年連続シンポジウムに参加。
高橋さんのツイートに写真があったので転載。
昨日は日本自立生活センター(JCIL)が開催した第32回 国際障害者年連続シンポジウム「どんな障害があっても安心して暮らせる地域社会をめざして──親元や施設ではなく、地域での暮らしをどう進めるか?」に参加してきました。 pic.twitter.com/M9OvcCJfG6
— takahashi tsubasa (@ttsubasa) 2018年3月4日
重度身体障害の方の介助を中心としていたころは、当事者の意思と指示の尊重というかたちでよかった基本的構えが、事業が拡大して知的や精神の障害当事者に関わる状況になると成り立たなくなったという。また新しい向き合いが必要になった。
かつて障害当事者の自由にとって、皮肉なことにそれを阻む壁は親だったという。ハンセン病患者の自身の尊厳回復のための本名カミングアウトも親族によって阻まれる場合が多かったときく。個人の尊厳と自由の獲得は、世間を敵にまわす対決となる。親族の「幸せ」を守るためにお前は犠牲になれと言われるとき、うんと言えば親族は守られるが現在と未来の同じ立場の人たちを犠牲にするのを承認したことになる。
アンフェアな現状の世界をフェアにするために最初に反逆する人たちは往々にして世間的には報われず犠牲になる。彼らはしかし自身と同じ立場の人たちに対して人としての救いを求めてやるのだと思う。人間らしさは、有用性の理屈を人間に対して持ち込んでくることを断固拒否することによって生まれる。人間らしさは、受け入れることであるよりも、毅然とはねのけること、持ち込ませないことによって作り出される。
親や行政。今まで闘ってきた相手と今は対話するときだという。信念を持って闘ってきて、獲得し至った状況がある。そしてその状況を次へ動かすためには、自分を今に導いた信念を変え、それまでの自分と決別する必要すら出てくる。支えにしてきたものと自ら別れることの無念さや寄る辺なさはどれほどのものかと思う。
だがそれを乗り越えてきた人たちがいる。「社会との和解」という言葉が使われていた。それは自分自身に対しての赦しでもあっただろう。
自立生活センターが開催したシンポジウムでは珍しく、障害者だけが語るのではなく、親や支援者と一緒に対話を試みようとするような構成でした。その対話は、小泉浩子さんの「和解」の話しへとつながっていきました。 https://t.co/vBaqzV1TIN
— takahashi tsubasa (@ttsubasa) 2018年3月4日
自分自身が多くの人と出会い、それがどこにたどり着くのかも見えないまま、傷つきながら、しかしなお共にいることでお互いが変わっていった。皆さんに言いたいことは、多くの人と出会うことをその人に与えてほしいとおっしゃっていたと思う。
私は、形はともあれ、どの場所も居座り続けることしかないように思っていますよ。そこから目てくるものを拾っていくしかないように思う
— koizumihiroko (@koizumihiroko7) 2018年3月4日
機会を奪ってはいけない、孤立させてはいけない、尊厳を提供された一人の人間として多くの人に出会うことを、たとえ自身が傷ついたとしても担保する。人間が人間になっていくことを誰にも与える。そしてそのことが自分自身を人間にしていく。