降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

私塾のネットワーク 続・テーマコミュニティ構想

以前、テーマコミュニティ構想という想像をFBとブログに挙げた。すると特にFBのほうに、僕にしては意外に反響があった。今回、それを少し違った角度からも考えてみた。

 

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

カウチサーフィンという国際的な無料宿泊の交換のネットワークのお話しをきいた。このことが成り立っているということは、関係性を育てることに全く意識がなく、自分のために一方的に奪うだけの人に対して一定程度のフィルターをかけられているということなのだと思った。

 

同時にこれは、一定程度、人を大切にする関わり方を身につけている人同士は、家や土地なども含め、その持ち物や関わりのあるものを共有のものとして自由にシェアしあえるということも示唆していると思う。

 

異文化(同じ国でも一人一人は異文化だと思うので。)の人を大切にできる人の間に通路を設け、循環がおきるようになれば、福祉でも教育でも国や行政に依存せず、実質自立できるのではと思う。ネットワークがそこに存在すれば、ネズミ講的なことで利用しようとする人、固定的な思想信念を布教するためにそれを利用する人、悪用しようとする人もやってくるかもしれない。ここは難しいところだと思う。

 

現実的にはどういうかたちがあり得るのだろうか。健康的な抵抗力をもち、おかしなものをどこまでも侵食させないありようとは?

 

たとえば、そのネットワークは、ネットに公開したり、名簿に載せられるようなものでなく、あくまで個人と個人のつながり、お互いに相手を異文化として尊重し、責任をもちあうような一つ一つの自律的な関係が重なっていくもの、連なっていくものだとイメージしてみる。であれば、侵食してくるものに対して、個々が考え、判断し対処を講じるので、全体が侵されるということを避けることができるのではないか。


メンバーや規則などが固定化された組織ではなく、かといって、何かやりたいとき、いざというときにはこの指とまれで、協働できるためには、ゆるやかな関係性がそこに育てられている必要があると思う。だからそのような関係性が維持される仕組みは必要だろう。

 

学校や劇場スペースなどは、異なる年代や肩書きの人が集い、出会いがおこるポテンシャルを持たせられる場所だと思うが、行政の「公共」によってその場が支配されてしまうのなら、自分たちの自律性をもってそういう場所をつくるほうがいいと思う。

 

僕が思いつくなかでは、私塾のネットワークのようなものがあれば、上記の課題をこえて、機能を果たすのではないかと思う。日本の各地に、そして世界の各地にある私塾が任意でその方向性に同意し、つながる。私塾は私塾としてあるだけなのだが、そこに通路をつくること、セミオープンにすることでそこに流れがうまれ、人は出会い、循環する。

 

私塾が主体となり、何かをリードするのではなく、あくまで人が循環し、出会うための場所として私塾がある。(もちろん、そこで教える内容に魅力がある必要もあるだろうけれど。)考えるのは個々人、主体をもっているのも個々人、何かプロジェクトを考えるのも個々人だ。

 

すでにあるこの団体で何かをやりましょう、というやりかたもあるけれど、人々がゆるやかに関係性をもっているなかで、この指とまれをしたときに集まる人たちとともに何かをやるかたち、またお互いにほどよさを自分で調整しながら自由に枠組みをつくって関われることは、端的にとても面白いと思う。そしてそれはこの世界に自分たちが自分たちの力生きていける自立空間、自律的生存圏をつくりだし重ねることにつながっていると思う。

 

たとえば、この考え方をもとに今経営が厳しいと言われるユースホステルとコラボして各地に私塾をつくっていくなどということができないだろうか。