降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

当事者研究 ある場の認知

自分がいかに否定的なイメージを人に投影しているかと思うけれど、ある場でわかり安く出たのでちょっとみてみようと思う。自分が勝手に捉えたもので本人が実際にそうであるかは別。

 

年配の男性
→人の話しを聞くときに分析して意見するが、分析が妥当でなくそこから出る意見も微妙。

 →それに対し強い腹立ち・不信

  →年配男性ということである種の権威性を感じている

  →権威があるのに間違ったことをいうところに強い反発

 →自分の意見に疑いを持たない無自覚さ・暗愚さに怒り

 

ある種の権威を認めているから反発がくるように思う。認めなければいいのにと思うけれど、そうなっているから反応がおこる。先生とか立場が上の人とか、援助者とか。そういう属性の人がいい加減なことをいうのを聞くと強く苛立つ。そういう人に資格があって社会的な認知がされて、変なこと言っても意見が意見として受け取られるのに我慢がならないということは、妥当なことをいう自分がもっと認められるべきだという嫉妬とかそねみであるだろう。妥当なことを言う自分とか、自分でもよく言うなと思うけれど、反応に嘘はつけまい。これを書くということで反応に変化があるのか、またここからどうこの反応にアプローチするのか、考えてみる。

 

暗愚さへの反発は、子ども時代からのものだ。他人の暗愚さも自分の暗愚さも許せない。アンチ暗愚。他人が無自覚なことを話しているときのいたたまれなさは、自分が気づかずそうしていることが連想されるからでもあるだろう。暗愚さは意思の操作で変わることではないので何をやっても無駄なのになお受け入れられない。矢も盾もたまらず暗愚の発露を避けようとしている。暗愚、愚鈍は気持ち悪さとも結びついている。

 

もしかすると気持ち悪さの方がむしろそこから逃げたい性質かもしれない。自分が気持ち悪いという信念があってまあ妥当かもしれないが、しかしそこから何がなんでも遠くへ行こうとする。滑舌の悪さとか、場に飲まれる気の弱さとか、容姿とか、そういうものが気持ち悪さと結びついている。

 

フラッシュバックもそもそも自分が気持ち悪いと思っていた人と自分の根が同じなのではないかというところからはじまったので、ここは根が深い問題だ。気持ち悪さを避けるために、人と距離をとるとか、人に近づかないとか、何か話していい反応がなかったらただちに遠ざかって、嫌われたのではなく自分から離れたのだ、みたいなところにすがりつこうとするとか、みみっちいことをしている。