降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

年内最後の当事者研究

今年最後の当事者研究、終了しました。今年ご参加いただいた方、ありがとうございました。

今日は、いつも通り振り返りと気分体調から始まって、これからの自分助けプランを考え、最後は何が自分の生きることを充実させることをつくるのかという哲学カフェ的に考える場を持ちました。


自分助けといっても健康に気を配ることやらストレス解消法やら無限にあると思いますが、この自分にとっての生きることの意味、あるいは充実、喜びといったものは何なのかという軸のもとに、何がその自分の自分助けになるのかと吟味してもらえたらと思っています。


哲学カフェ的にやる意味は、思考の堂々巡りのパターンを少しずつずらしていくためだと考えています。何も感じずパッと思いつくことで考えることが堂々巡りを生みますが、本当に自分にとってどうなのかを吟味する時、考えるより感じるということがおこっています。感じてみて、よりフィットする言葉や感覚を見つけた時、堂々巡りはたとえおこったとしても前のものとズレています。それを続けていけば思考や感じ方に変容がおこってくると思います。

問いを受け、吟味し、感じる時、一瞬だけ高い集中が生まれています。その高い集中の時に今までスルーされていたような微かなものが捕まえられ、実際の自分の状態として意識化されます。海に潜り海底でかすかに光る何かにさっと捕まえて浮き上がるような感じかもしれません。

あとでちょっと補足したくなったのは、「充実」という言葉についてでしたが、他にもっといい言葉があればそっちを使いたいですが、とりあえず使っています。なるべく一般的な言葉にしたいと思って使いましたが、どんな幸せな人も多分強い高揚感は一時的なものであり、それが常時続いていたらそれは異常事態だし、身体にはストレス状態だと思います。


「充実」といっても強い感情をおこすものではなく、もう少し淡く満たしてくれるような感覚かもしれません。食事に例えたら、毎食美味しくて感動するご飯という感じでなく、そういう刺激はなくても、何か確かなものの手応えが感じられるといったような感じかもしれません。

質問の語句の選択は、誤解があったらあったなりに面白い発見ができる場合がある気もしていますが、自分と関係ない何かを考えつくのはあまり意味がなさそうに思います。「充実」でも「喜び」でも「意味」でも「意義」でも何でもいいのですが、問いから派生する一瞬の高い集中を使って、自分にとって重要なものをよりはっきりとみるのが目的ですので、シンプルに自分にあるものをよりはっきりみれるように調整して吟味してもらえればと思います。違和感ある語句だったら、別の言葉に入れ替えてもらっても大丈夫です。

通路の詰まりと回復 菊地直子さんの手記から

自己不信と他者不信は別々のことではない。それらは自分が閉じていなければ既に開いていつも息づかせる流れを運びこんでくるいわば「通路」の状態のことを指していると思う。

 

ironna.jp



気づいてみれば自分が閉じているためにその感じ方が作り出されるのだが、そうは思えず、他者や世界がもともと悪く自分はその被害者と感じられる。無自覚ではあれ、自分が作り出したその他者像、その世界像のフィルターを通して認識がされ、体験がされる。

 

 

気づきや支持的環境は必要だけれど、無自覚に遮断しているものが開けば世界の体験のされ方は変わる。既知の世界、つまり思い込みの世界のリアリティの外に踏み出すとき、通路は開く。その踏み込みが既知の世界に閉じ込められ、認識や感じ方までが決められていた状態を終わらせる。通路からは自分を息づかせるものが流れ込んでくる。

 

 

その流れを回復させていくことが、即ち人間が回復していくことに他ならない。そして回復の方向こそがそもそも自分が行きたかった方向であり、同時にそれ以外は死していく方向だと知る。それまでの重みが大きいほど、このことは深く理解される。

 

まだ通路に詰まっているものは何なのか。それを取り除きはじめる。生きて回復していく方向はそちらにしかない。そして詰まりが取り除かれた通路の状態こそ何を獲得せずともそのままで生の解放と充実が感じられるところだ。


 この状態から抜け出したくて、私は幼少期の体験まで思い起こして、必死にその原因を探ろうとしました。そしてやっと、無意識的にある思考パターンに陥っていることに気付いたのです。そのパターンとは、「話してもどうせわかってもらえない」「わかってもらえなくて傷付くだけ」、だから「最初から話さない」、もしくは「一度話してだめだったらすぐにあきらめてしまう」というものでした。

 

 そのことに気付いた時、私は初めて、傷つくことを恐れずに自分の思っている事を相手に伝えようと思いました。そう決意して面会したところ、それまでは全く伝わらなかったこちらの意思がすんなりと相手に伝わったのです。それは劇的な変化で、いったい何が起きたのかと呆然としてしまったほどです。

 

 この時、伝わらなくて困っていたのは「週刊誌は読まないから差し入れないでほしい」という些細な内容でした(私の記事が載っていたわけではないのですが、読みたくなかったのです)。「入れないで」と言っているのに、「外の情報がわかった方がいいから」と親が差し入れをやめてくれなかったのです。しかし、私がそれをうまく断れないのは、「断ると相手に悪いから」という相手を思いやる気持ちから来るのではなく、「自分が傷付きたくない」という理由でしかなかったことに気付いたとたん、状況が一変したのでした。これ以降、親に対して「伝わらない」と感じることがどんどん少なくなっていきました。

 

この体験を機に、私の中で世界の見え方が徐々に変化していきました。この世の現実というのは、心が作り出しているのではないかと思うようになったのです。親との関係で言えば、「親にわかってもらえない」という現実が先にあるのではなく、「傷付きたくない」「どうせわかってもらえない」という否定的な想念が先にあり、その想念が心に壁を作り、その壁が言葉を遮断し、言葉を発しているのにもかかわらず「伝わらない」という現実を生み出していたのではないかと思ったのです。

 

 そこで初めて、私にも三浦和義さんと同じことができるのではないかという思いが湧いてきたのです。三浦さんの著書『弁護士いらず』(太田出版/現在絶版)には、「きちんと話せばきっと理解してくれる、という思いがあった」など肯定的な言葉が何度も出てきます。


「私と正反対の考えで生きている人だったんだなあ。きっとこの信念こそが高い勝訴率を生み出した原因に違いない。私はずっと『どうせわかってもらえない』と思いこんでいた。その思いこみが、犯人とされることに甘んじる結果につながっていたのではないか。このままでは誰も真実を報道してくれない。だったら自分から声を上げよう。必ずわかってもらえると信じた上で、きちんと説明すれば、きっと今の現実を変えることができる。その過程で傷付くことがあったとしても、それでもかまわない」

 

当事者研究というスタンス

FBから菅原さんの演劇の感想のリンクでやってきた方は下記へ。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

さて、今年はこれまで考えてきたことをまとめる本を出そうと思う。3年前の記事から基本同じことを書いているが、自給とは何かということが明確化し、回復から学びという言葉を使うようになった。


僕はアカデミズムの人ではない。僕が考えを進めてきたことは当事者研究であり、その妥当性は実際に生きている当事者にとって使えるかどうか、考え方を更新するような契機や刺激になるかどうかという点で判断してもらえればいいと思う。あるいは楽しめるかというぐらいで。数ある当事者研究のなかの一つとして僕の「研究」がある。

なぜそういうのかというと、僕の能力の乏しさや相性もあるが、学問の世界には僕の探究にフィットする感じがなかった。自分に必要な何かの発見に至るための手続きは当事者としての僕には無駄が多いと思われた。当事者として必要なのは実際に自分の感覚や認識を変える次の展開を開く何かであり、別にその発見を誰かに証明したり学会で認めてもらう必要はない。


自分が探究していることは自然と分野を横断するようなことになるし、境界的なところを取り扱う。当事者はそういう境界的な場所で作業仮説をつくり、自分を実験台にして、その仮説の妥当性を確かめる。自分や状況にさして変化がおきなければ、それは違うのかなと判断されるだけだ。だが当事者の苦しみは続く。だから作業仮説は常に作り出され、更新され続ける。少なくとも当事者は自分の苦しみに対して妥協しない。僕はそこを信頼できると思う。どうでもいい問題設定は当事者においてされない。学問の世界は、当事者の僕にとってはどうでもいい古びた前提をいまだに敷いている世界にも見えた。

当事者研究において、それぞれの研究は個々人のリテラシーで判断され、全体的、あるいは部分的に自分に取り入れられたり取り入られなかったりする。それでいい。それがリテラシーを育む。リテラシーというのはそもそもそういう自分の吟味で育まれるものであり、ネットやテレビに出てたからといってそれを即座に真実だとみなすのは、リテラシーを育む機会を奪われているからだ。それは学びの疎外の一形態といっていいだろう。リテラシーを育む機会は、個々が頑張ってリテラシー獲得自体を目的化するよりも、それぞれが何かの研究者であるときに自然と提供されるだろう。

得た知見はいつも過程のものであり、途中のものだ。だが当事者たちにはそれで十分なのだ。別に普遍的な真実はこうだとか、規定するつもりなど一つもない。重要なのは使えるかどうかであり、生きている当事者が考えを展開するものになるかどうかだ。そしてそれを更新していく。学問の世界にいる人でも変な動機に基づいている人は問題設定からずれていたりするし、自身の認識を更新することより、自分の認識の更新を否定するためにやっていることが「研究」と呼ばれたりしている場合もあるようにみえる。

ワーク・イン・プログレスという言葉があるそうで、ダンスなどをつくる途中の状態で、それはそれとして観客にみせる。ワーク・イン・プログレス後に「完成」もあるのだが、製作者にすればその「完成」も次への過程だといえるだろう。そう考えると全てはワーク・イン・プログレスなのだ。どこかの時点で切り取ったことをもってそれを真実であるかのように、人に「普通」や「常識」を押しつけるのは、学びの姿勢から疎外されている人がやることだ。そうされることによって自信を失った個々人もまた学びの疎外に拍車がかかるだろう。

ある学びが学びであるかどうかを決められるのは、結局はアカデミズムにいる人たちなのだろうか。見識という権威を持った人にそれは勉強ですね、学びですねとお墨付きをもらい、承認してもらえることで自分がしているそれが学びと呼ばれるに足ることであるかどうかがわかるのだろうか。

そうではないと僕は思い、別の見方を探ってきた。教育哲学者林竹二と湊川高校の事例にヒントがあった。「勉強」することから最も離れているような荒れた定時制の生徒たちの変化は林がそれまで他の学校で見てきたどのような変化よりも大きいものだった。

学ぶとは変化がおきること。それもただの付け加えのようなものではなく、パソコンのOS自体がアップデートされるような、自分の基軸からの更新がおこることだ。その出来事を体現した湊川高校の生徒たちは貧しい被差別部落地域の出身であり、強い社会的抑圧、苦しみをもっていた。だが強い圧力、苦しみを受けている人たちの体こそ、更新の動機を強くもっていた。学びに対して高まった体だった。

学びは学校の科目学習がもともと得意な人や経済的に余裕がある人のものではなく、もっと生きものとしての体に根ざすものだと思えた。自分の感覚や認識、受け取るものへの反応を決めているような自分のOS自体を更新していく自己更新の動機こそ、学びの動機であるだろうと思う。

ならばアカデミズムの世界の作法ではなく、生きものとしての人間の自然にのっとり、最も自分の体の求めに従った自己更新が停滞なく展開していくための場、そしてそれを含めた総合的な文化的環境とはなんだろうかということが問いとなるだろうと思う。

自分自身で試行錯誤しながら直接世界と関わり、世界と対話していくことは、何を達成しなくても、それ自身が充実となり、派生的に次の展開を生んでいく。その時それ自身の獲得を目的化してなくても、現実に対する吟味の能力、リテラシーが自然に育まれる。そして学びは自分にとって既知である思われる人の外にいる他者と関わりによってよびおこされる。それは自然と他者に対する尊厳を知っていくことになるだろう。

誰かに作ってもらった枠組みに安住することは、実は何がしかの恐怖におびやかされている状態であり、その変わらない世界に人は倦んでいく。そしてそれを強い刺激や高揚によって抑圧しなければいけなくなる。内的なものを含め、恐怖や不安が可能な限り取り除かれたときに自己更新のプロセスは自律的に展開をはじめる。

自己更新の求めは自意識をもつ人たち全てにあると思う。どうやら学びは自分が知らないうちに構成してしまった自分というOSを更新するものとしてあるようだからだ。それは生きることに新鮮さを取り戻そうとする求めであるともいえるだろう。

自己更新をすすめるのに、アカデミズムの作法に従うのがあっている人はそれでいいだろうし、そうでなければどのようなあり方でもいいのだ。そのあり方はそれぞれの人にとって異なるものであり、むしろ自分自身でフィットするものを試行錯誤し見つけなければプロセスが進んでいかない。誰に保証をもらわなくても、感じたことに自分が応答し、実際に向き合うかどうかが全てになる。

その時点や時代において「確かなこと」を積み上げていくような研究がある一方で、お互いにリテラシーを育みながらそれぞれのあり方で世界と直接関わり、さらに自由を広げ研究や探究していくあり方が当事者研究だろう。別に当事者研究といわず、自己更新の求めに従い生きているだけといってもいいのかもしれないが。もちろんそれがアカデミズム排除を意味するものではなく、アカデミズムとコラボすることもあるだろう。自由なのだから。当事者研究という言葉は、学びというものが誰かに囲い込まれているかのような現状があって、それを打ち消すために現れてきた言葉なのだろう。



菅原直樹さんの「カメラマンの変態」を観に行った。

前日の終活ゼミに続き、菅原直樹さんの公演「カメラマンの変態」を観に岡山へ。

 

oibokkeshi.net

 

今自分がいる現在の世界の物事はとても確固たるもののように見える。他人のきらびやかさやステイタス、幸運もまた確固たるものに見える。だが大きな時間の流れの中で誰もが老い、死に、芥子粒のように消える。

 

 

老えば過去の栄華は他人からは見えなくなっていく。「現実」だったそれももう夢のようなものになる。加えて老わなくても死は突然やってくる。

 

 

公演を観て実感したことは、大きな時間の流れのなかでの人の小ささであり、生きていることの不確かさだった。

 

 

栄華や若さ、美しさ、そういうものが大きな時間の流れのなかでは、意味のないぐらい小さいただの一コマに過ぎないのだと感じた。

 

その時、一人ではご飯もうまく食べられない老人とそこに関わるまだ若い二人との格差はもう感じられなくなっていた。一コマが小さ過ぎて、どのことも儚い夢のようにしか感じられないのだ。

 

 

公演後、京都から来ていた知り合いのお二人に出会い、親切にも京都まで車で送ってもらった。温かな時間をもらった。これも一コマになった。大きな時間の流れのなかで「現実」と「夢」の違いはあまりない。何十年もたったとき、本当にそれが現実だったといえるだろうか。そして同時に仮のひと時がどこまで仮なのかもまたわからないのではないだろうか。

 

逆に考えるなら、あるひと時をつくること、その一瞬を生むことが、生きることの全てであるようにも思えた。

 

<菅原さん関連の過去ブログ> 

kurahate22.hatenablog.com

 



kurahate22.hatenablog.com

 

1月の終活ゼミ・ワークショップと昨日の報告

昨日、終活ゼミ4回目を行いました。

終活ゼミは現在哲学カフェを基調にしています。哲学カフェ的にやる時間は、老いや死の準備というよりは、老いや死が先延ばしにしたり不問にしている自分の底の求めや救いを明確にするのに適した媒介であるところを使ってやっています。



自分として生きることは、何かを達成することであるようにも思われますが、達成や結果は最終的には自分がどう頑張ろうとも状況依存的なものであり、そのことは自分ではどうしようないことです。



老いの準備をしたところで、予想と全然違う状況になり、その準備が不意になることもあります。老いとはそれまで自分が直面しなかった新しい状況に出会うことです。ある側面で準備とは、今の自分がなるべく変わらなくていいままに状況に対応する意図で行われるかもしれません。

が、結局後手にまわるその発想よりも、むしろ新しい状況に対して自分が変わらざるをえないことを「使って」、底にある求めや願いをむしろ顕在化させる機会であると逆手どりすることで、予想外の困難な状況に対しても、自分としてあり、主体である可能性がひらけてくるのではないかと思います。

 


どのような新しい状況がくるかはわからないけれど、そのたびにその状況を逆手にとって自分の根源的な求めに近づくための通路にする可能性は残されている。

 

 

一方そことは別の次元で、マイノリティが生きていくにあたり、自分が自分を含めたマイノリティのための場や仕組み、ナリワイをつくるという選択肢があると思います。持っているものが少ないマイノリティが自助し、生きることを確立しながら、自分を更新していくのに必要な世界との接点を生み出すことも今後考えていければと思っています。

 

 

1月の終活ゼミは、13日(土)、20日(土)に行います。

2018年1月 終活ゼミ・ワークショップ
とき 13日(土)、20日(土)共に13時〜16時
ばしょ ちいさな学校鞍馬口
要申し込み

「休日」というイデオロギー

「祝日日数世界一だから日本人は休み過ぎ?」は本当かを検証してみる - 井を出た蛙の生中継

「休日」とか「余暇」は現在の社会構造や労働が人にとって本来的なものであり、その構造の妥当だと前提した言葉だと思う。そうでないとその時間は余りでもないし、暇でもないはずだ。これからも生きていくために使わなくてはならないから。その時一つ一つの行動のリスクは自分が負っており、どのように状態を整えようとしていようがそのあり方自体を他人から批判される筋合いはないはずだ。いう通りにした結果困った時にその人が自分に代わってくれるのではないのだから。



個人は自律的であり自分たちで社会の決められた枠組みを変えていくのか、それとも誰かが作った仕組みに従属して生きていくのか。その枠組み自体を変えていくために使う時間は生きるに当たって妥当な時間の使い方であるはずだけれど、お情けでもらえる「休み」や「余暇」を使わざるを得ない。仕組みを作っている側にいる人たちは自分たちが勝ち逃げできるように全体を歪ませようと日夜努力していて、そうでないあり方をもたらすものに強い抑圧をかける。



「余暇」というイデオロギーを受け入れている限り、もう一方の労働が当然視される。当然視は他者を自分として捉えることであり、他人と自分が違うことを拒受け入れずに強制し、罰を与えることで相手に奪われたと思う自分の被害を補填しようとする。



あなたが働いて納める税金で社会が成り立っているのだから、あなたが働かないことは社会やひいては私にも被害を与えているというのなら、そのように個人の自由があるように見せかけながら全ての人を潜在的に労働へ強制している社会は実質の奴隷社会なのだから、共に違う社会を目指そうというべきなのではないだろうか。つまり、そのような批判は自分が奴隷であるのにあなたが奴隷を免れているのは気に入らないということだろう。

 

当事者研究 振り返り2

当事者研究を3つの場でやっているのだが、12月は振り返り月間ということで、1年の振り返りをやってもらっている。僕はどの場でも一緒にやるので3回以上やるわけだが、無駄がないと思う。吟味すること、整理することには何も無駄がない。やったらやった分だけのことがある。

振り返りをやってしばらくたって、また気づくことがある。

 

◇今年で変わったこと

畑に行くとか、何か用事をしようとするとか、次の行動に移る時に移れず、グダグダと時間を潰してしまい、自分でもイライラしてくるのが今でもあるけど、3月4月とかだったらもっとその時間が長かったように思う。今は相対的に割とぱっと立って次に移れる感じがある。気分を停滞させるイライラ、滞留の作用も後に残る。いつ頃からだろうかと思うと、畑行くのにグズグズしていた抵抗が無くなっていったのは6月、7月ぐらいではないかと思う。9月とか身体教育研究所に行き始めた時に、さっと立てる感じがあると言っていたのを覚えているので、その頃にまたちょっと変わったかもしれない。

◇畑

3月4月の頃から関わり方は色々整理した。その頃はかなりやる気がなくて、どうしようかと思っていた。ひっかかりや停滞する現状をぼちぼち整理していった。整理できるところがあるとそこはすっきりする。そのすっきりさが次のことをやる余裕ややる気になる。畝立てのような単純な作業でもどうやったらよりいいのかを探るような感じで畑に関わりだした。もう一度自分の実感を使い、学び直す感じでやり始めたとき、退屈な作業というのは無くなっていったような気がする。

◇身体教育研究所の稽古

たまたまの出会いがあって、整体協会の身体教育研究所の稽古に通いはじめた。自意識のこととかマニアックなところ、自分が今まさに探究しているところで話しができる相手がいなかったが、ここではできる。最近は特に何も習い事をしていなかったが、今のところはずっとやっていけるような気がする。面白くてたまらないという感じというより、よくわからないながら、興味深いという感じ。月に2回とか3回とかのペースでもよいようだし。色々程よい。意識の切り替え方とか、ある身体状態の作りかたなどは日常に影響を与えているような気がする。稽古の時に作る意識状態はいい感じがあり、その意識状態を日常に持ち越していけないかと思う。メガネをとった状態では自分の意識状態が変わるのにも気づいたので、問題ないときはメガネをとったりし始めたのもここの影響だ。

 

◇掃除

住人の引っ越しがあり、まだ新しい人を募集中だが、環境に変化がある。自分のあり方をもう一度見直す機会になった。モノの整理をし直し、キッチンの掃除を今までしてなかった細かいところまでやり、今までは別の人の担当だった風呂場のカビ取りもやり始めた。今まで風呂掃除がめんどくさいので銭湯で済まそうとしたり、なるべくシャワーだけで湯船の掃除をしなくてもいいようにしていたが、今はむしろ掃除をちゃんとするために自分が風呂に入るぐらいの気持ちになっている。ここ数週間は、自室も汚れをためずに、その場で取るか、日々ちょっとした掃除をするようになっている。


◇メガネ

右目がメガネかけていてもメガネの意味ないぐらいぼんやりとしか見えないことに気づいた。重い腰をあげ、新しいメガネを買いに行った。それまでは寝る時メガネケースに入れるのも面倒臭く、放っておいたが、今はまめにメガネケースに入れている。前のメガネが相当傷だらけだったので、世界が鮮やかに見える。こういうことも日常の切り替えの役には立っているように思う。

◇最近の感じ

FBのイベントのお知らせなど、ちょっと前などほぼ一律に面白そうなのなしといった印象だった。自分の方の意識の整いもなかったのだろう。最近は、焦点を持ってこれは行くと面白いかもと思うようなものがぼちぼちあるなあと気づいてきた。整いが重要なのだと思う。何かが整っていけば、整いに応じて次のことがおこってくるようだ。