降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「休日」というイデオロギー

「祝日日数世界一だから日本人は休み過ぎ?」は本当かを検証してみる - 井を出た蛙の生中継

「休日」とか「余暇」は現在の社会構造や労働が人にとって本来的なものであり、その構造の妥当だと前提した言葉だと思う。そうでないとその時間は余りでもないし、暇でもないはずだ。これからも生きていくために使わなくてはならないから。その時一つ一つの行動のリスクは自分が負っており、どのように状態を整えようとしていようがそのあり方自体を他人から批判される筋合いはないはずだ。いう通りにした結果困った時にその人が自分に代わってくれるのではないのだから。



個人は自律的であり自分たちで社会の決められた枠組みを変えていくのか、それとも誰かが作った仕組みに従属して生きていくのか。その枠組み自体を変えていくために使う時間は生きるに当たって妥当な時間の使い方であるはずだけれど、お情けでもらえる「休み」や「余暇」を使わざるを得ない。仕組みを作っている側にいる人たちは自分たちが勝ち逃げできるように全体を歪ませようと日夜努力していて、そうでないあり方をもたらすものに強い抑圧をかける。



「余暇」というイデオロギーを受け入れている限り、もう一方の労働が当然視される。当然視は他者を自分として捉えることであり、他人と自分が違うことを拒受け入れずに強制し、罰を与えることで相手に奪われたと思う自分の被害を補填しようとする。



あなたが働いて納める税金で社会が成り立っているのだから、あなたが働かないことは社会やひいては私にも被害を与えているというのなら、そのように個人の自由があるように見せかけながら全ての人を潜在的に労働へ強制している社会は実質の奴隷社会なのだから、共に違う社会を目指そうというべきなのではないだろうか。つまり、そのような批判は自分が奴隷であるのにあなたが奴隷を免れているのは気に入らないということだろう。