降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

演劇 状況を設定し内在化された規範を破綻させる

台詞をおぼえること、振り付けをすること、ある振る舞いのコードに従うことが演劇なら、状況設定をすることをおしなべて演劇ととらえたらどうかなと思っている。催しものをすることも演劇。ある仕事をしているのも演劇。国というシステムも演劇。慣習も演劇。

 

言葉の見方、定義、範囲を変えるのは、距離を調整するため。距離を変えることによって、現実は現実で変わらなくても、そこへの対応が柔軟になったり、スムーズになったりする。向き合い方が変わってくる。自然と対応策が生まれてくる場合もある。

 

状況設定を演劇だととらえることで、以下のことが獲得しやすくなるように思う。

 

1.全ての状況設定はある目的に向かうための便宜的で仮のもの、一時的なものであり、あたかも普遍性のあるようなものとして真に受ける必要はないという距離感。

2.ある目的のために自由な場面設定を自主的にしていいという距離感。むしろ生きていくためには、個々が場面設定を考案し実行していくことが事実上必要なのだという距離感。

 

元日に全てが新しくなったような錯覚を受ける。みんなで一斉にそう振る舞うからだ。状況設定により、現実感、リアリティが生まれ、そのリアリティを人は体験する。状況設定がされれば、悪いようにも良いようにもあるリアリティが生まれる。

 

人間の強みは、自分が工夫すれば、いかようにも状況設定をすることができることだと思う。他の生きものは、プログラムされた行動によるもの以外は、基本、状況設定をしないはずだ。

 

生きものの身体は環境に適応するために無意識に調整されてしまう。その体質は、人間であっても免れない。人間がつくった(いい意味でも悪い意味でも)文化的・社会的な環境であっても、生きものの体質として否応なくそこに馴染もうとしてしまう。そして順応体制が勝手に構築されてしまう。

 

だから大勢がつくっているような環境があって、それが抑圧的に働く場合の対峙するためには、そこに加えてもう一つ環境をつくりだすことが有効だと思う。一旦、自分の身体も「抑圧的」な文化に馴染んでいる。だからもう一つ環境をつくることによって、またそこに体をおき、馴染ませる。

 

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環境をつくらずに、意思とか思考とか、決断だけで変わることは難しいんじゃないかなと思う。無意識のものが含まれるので。逆に環境を調整し、つくりだせば、特にものすごく意図しなくても、自然に身体が馴染んでいく。

 

人間は自分にとって必要な体験ができる。しかし、それは内にあるイメージが外界に投げかけられた環境のなかで可能となる。イメージが外に投げかけられるためには、またそのための条件を満たす必要がある。

 

精神科医の神田橋條治さんの文章をみるなかで、治療者と患者の間には「幻想の絆」が生まれると表現されている。もともと絆というものに、物理的な実体などないし、それぞれの思い込みにはズレがある。しかし、とにかく重要視するのは患者側の持っているイメージ、受け取るイメージ、投げかけるイメージだという。

 

患者は自分が意図せずつくったイメージを投げかけ、イメージをより具体化し、自分の内から、外の世界に投げかけたうえで、体験しようとしている。それによって、自然治癒力は活性化され、具体的な身体的回復が早まり、精神的に固着していた状況や固執などを終わらせる作業がすすむ。

 

その行為をみて、僕はこれはつまりは弔いをやっているのだなと思うのだけど、その弔いを完遂するためには、まずイメージが投げかけられなければいけない。また投げかけがおこるための条件も揃える必要がある。特殊な場づくりが必要。

 

基本的には、外界を利用し、自分を回復させていくメカニズムが生きものの内にはあるのだけど、それを阻害する要因もあって、それは取り込まれた「社会性」とか、「文化」的な学習であったりする。

 

そのリアリティは日常生活のなかでほっておけば、むしろ強化される傾向がある。活性化しようとしている自然の力に対して、それを押さえ込もうとする力は弱くさせる必要がある。日常的なルール、刷り込まれている規範を曖昧化したり、無意味化させるような状況設定をするのだ。

 

認知症の高齢者に対し、演劇的手法をもって関わろうとする老いと演劇のワークショップを主宰されている菅原直樹さんのアプローチをこの視点でみる。まず痴呆症の老人は自身の自然治癒力を活性化させるために、最も必要なイメージを出してくる。自分は今妊婦であるとかいう、一番輝いていた時代を出してくるので、現実的にはあり得ない設定になるわけだが、まさにしたい体験をしようとしているのだから、こちらがいらない設定を用意や準備しなくてもいいわけだ。なるべく向こうのイメージ通りの設定で対応する。向こうが満足するということは、何かが弔われてある作業が済んだということなのだと思う。

 

老いてなくてもしたい体験なのだが、身につけた学習が邪魔をする。認知症になってそれが破綻したために、純粋にその体験ができるようになる。必要な体験をしようとするとき、認知症じゃない人にとっては、認知症にかわる工夫が必要だ。それが状況設定、演劇であると思う。ヴァイオラ・スポーリンは、シアターゲームという手法によって、人がとらわれている規範や過去を破綻させるアプローチを多数考案した。僕の周りでは今まであまりスポーリンのことを聞いたことがなかったのだけれど、スポーリンのワークは大きな可能性をもっていると思っている。スポーリンについては、また次回書きたい。

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