降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

当事者研究というスタンス

FBから菅原さんの演劇の感想のリンクでやってきた方は下記へ。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

さて、今年はこれまで考えてきたことをまとめる本を出そうと思う。3年前の記事から基本同じことを書いているが、自給とは何かということが明確化し、回復から学びという言葉を使うようになった。


僕はアカデミズムの人ではない。僕が考えを進めてきたことは当事者研究であり、その妥当性は実際に生きている当事者にとって使えるかどうか、考え方を更新するような契機や刺激になるかどうかという点で判断してもらえればいいと思う。あるいは楽しめるかというぐらいで。数ある当事者研究のなかの一つとして僕の「研究」がある。

なぜそういうのかというと、僕の能力の乏しさや相性もあるが、学問の世界には僕の探究にフィットする感じがなかった。自分に必要な何かの発見に至るための手続きは当事者としての僕には無駄が多いと思われた。当事者として必要なのは実際に自分の感覚や認識を変える次の展開を開く何かであり、別にその発見を誰かに証明したり学会で認めてもらう必要はない。


自分が探究していることは自然と分野を横断するようなことになるし、境界的なところを取り扱う。当事者はそういう境界的な場所で作業仮説をつくり、自分を実験台にして、その仮説の妥当性を確かめる。自分や状況にさして変化がおきなければ、それは違うのかなと判断されるだけだ。だが当事者の苦しみは続く。だから作業仮説は常に作り出され、更新され続ける。少なくとも当事者は自分の苦しみに対して妥協しない。僕はそこを信頼できると思う。どうでもいい問題設定は当事者においてされない。学問の世界は、当事者の僕にとってはどうでもいい古びた前提をいまだに敷いている世界にも見えた。

当事者研究において、それぞれの研究は個々人のリテラシーで判断され、全体的、あるいは部分的に自分に取り入れられたり取り入られなかったりする。それでいい。それがリテラシーを育む。リテラシーというのはそもそもそういう自分の吟味で育まれるものであり、ネットやテレビに出てたからといってそれを即座に真実だとみなすのは、リテラシーを育む機会を奪われているからだ。それは学びの疎外の一形態といっていいだろう。リテラシーを育む機会は、個々が頑張ってリテラシー獲得自体を目的化するよりも、それぞれが何かの研究者であるときに自然と提供されるだろう。

得た知見はいつも過程のものであり、途中のものだ。だが当事者たちにはそれで十分なのだ。別に普遍的な真実はこうだとか、規定するつもりなど一つもない。重要なのは使えるかどうかであり、生きている当事者が考えを展開するものになるかどうかだ。そしてそれを更新していく。学問の世界にいる人でも変な動機に基づいている人は問題設定からずれていたりするし、自身の認識を更新することより、自分の認識の更新を否定するためにやっていることが「研究」と呼ばれたりしている場合もあるようにみえる。

ワーク・イン・プログレスという言葉があるそうで、ダンスなどをつくる途中の状態で、それはそれとして観客にみせる。ワーク・イン・プログレス後に「完成」もあるのだが、製作者にすればその「完成」も次への過程だといえるだろう。そう考えると全てはワーク・イン・プログレスなのだ。どこかの時点で切り取ったことをもってそれを真実であるかのように、人に「普通」や「常識」を押しつけるのは、学びの姿勢から疎外されている人がやることだ。そうされることによって自信を失った個々人もまた学びの疎外に拍車がかかるだろう。

ある学びが学びであるかどうかを決められるのは、結局はアカデミズムにいる人たちなのだろうか。見識という権威を持った人にそれは勉強ですね、学びですねとお墨付きをもらい、承認してもらえることで自分がしているそれが学びと呼ばれるに足ることであるかどうかがわかるのだろうか。

そうではないと僕は思い、別の見方を探ってきた。教育哲学者林竹二と湊川高校の事例にヒントがあった。「勉強」することから最も離れているような荒れた定時制の生徒たちの変化は林がそれまで他の学校で見てきたどのような変化よりも大きいものだった。

学ぶとは変化がおきること。それもただの付け加えのようなものではなく、パソコンのOS自体がアップデートされるような、自分の基軸からの更新がおこることだ。その出来事を体現した湊川高校の生徒たちは貧しい被差別部落地域の出身であり、強い社会的抑圧、苦しみをもっていた。だが強い圧力、苦しみを受けている人たちの体こそ、更新の動機を強くもっていた。学びに対して高まった体だった。

学びは学校の科目学習がもともと得意な人や経済的に余裕がある人のものではなく、もっと生きものとしての体に根ざすものだと思えた。自分の感覚や認識、受け取るものへの反応を決めているような自分のOS自体を更新していく自己更新の動機こそ、学びの動機であるだろうと思う。

ならばアカデミズムの世界の作法ではなく、生きものとしての人間の自然にのっとり、最も自分の体の求めに従った自己更新が停滞なく展開していくための場、そしてそれを含めた総合的な文化的環境とはなんだろうかということが問いとなるだろうと思う。

自分自身で試行錯誤しながら直接世界と関わり、世界と対話していくことは、何を達成しなくても、それ自身が充実となり、派生的に次の展開を生んでいく。その時それ自身の獲得を目的化してなくても、現実に対する吟味の能力、リテラシーが自然に育まれる。そして学びは自分にとって既知である思われる人の外にいる他者と関わりによってよびおこされる。それは自然と他者に対する尊厳を知っていくことになるだろう。

誰かに作ってもらった枠組みに安住することは、実は何がしかの恐怖におびやかされている状態であり、その変わらない世界に人は倦んでいく。そしてそれを強い刺激や高揚によって抑圧しなければいけなくなる。内的なものを含め、恐怖や不安が可能な限り取り除かれたときに自己更新のプロセスは自律的に展開をはじめる。

自己更新の求めは自意識をもつ人たち全てにあると思う。どうやら学びは自分が知らないうちに構成してしまった自分というOSを更新するものとしてあるようだからだ。それは生きることに新鮮さを取り戻そうとする求めであるともいえるだろう。

自己更新をすすめるのに、アカデミズムの作法に従うのがあっている人はそれでいいだろうし、そうでなければどのようなあり方でもいいのだ。そのあり方はそれぞれの人にとって異なるものであり、むしろ自分自身でフィットするものを試行錯誤し見つけなければプロセスが進んでいかない。誰に保証をもらわなくても、感じたことに自分が応答し、実際に向き合うかどうかが全てになる。

その時点や時代において「確かなこと」を積み上げていくような研究がある一方で、お互いにリテラシーを育みながらそれぞれのあり方で世界と直接関わり、さらに自由を広げ研究や探究していくあり方が当事者研究だろう。別に当事者研究といわず、自己更新の求めに従い生きているだけといってもいいのかもしれないが。もちろんそれがアカデミズム排除を意味するものではなく、アカデミズムとコラボすることもあるだろう。自由なのだから。当事者研究という言葉は、学びというものが誰かに囲い込まれているかのような現状があって、それを打ち消すために現れてきた言葉なのだろう。