降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

11/28ワーキンググループのあとに考えたこと

世間が当事者に発言の資格を認めるのは、当事者が痛みを持っているからだと思う。たとえ傍観者となっている人でさえ、痛みが発露されるその瞬間には釘づけとなり一体となってそこに没入してしまう。それは自身が自身から乖離させた痛みをその人が自分の代わりに引き受け、自身の内奥で止まってしまった時間をその瞬間だけ動かしてくれているからではないか。

 

「観客席」という言葉が提示される。常野雄次郎さんの言葉からのものだという。「観客席」に座っている間、自分は世界でおこっていることと自分が一体であることを乖離させる。あれは自分が直接関わることではない誰かのことであり、自分にはそこに関わる資格もないし、また義務もない。世界から直接に応答を受けることもない代わりに、そこに関わる煩わしさや代償もない。疎外された自分と世界との関係を更新する応答の喜びではなく、煩わしさと関わることに付随する余計な代償がより少なくなること。それが世界に絶望した者に残される代替的な希望なのだろう。

 

どれだけ多くの人が自分がとうの昔から絶望しているとさえ知らないことか。乖離させられた感情は自身ではもうそれをとらえることができない。ただ自分の代わりにその痛みを引き受けた他者に出会うときに、その人が痛んだぶんだけ、殺されていた自分の時間がよみがえる。自分と同じ目にあわせる復讐もまた、相手に自分の痛みを再現させて、自分の止められた時間を動かそうとすることだろう。

 

当事者性とは、痛みに応答する主体となることだと思う。しかしその痛みはその当人だけのものではなく、同じ苦しみをもつ人たちに共有されている。人間として扱われず、時間を止められた人が自身の尊厳を取り戻すことは同時に、同じ苦しみをもった人たちに応答することとなり、同じように時間が止められる人を再生産するいびつな社会構造に亀裂をいれることとなる。

 

自分がいつの間にか座っていた「観客席」から立とうとするとき、穏やかで同じことが繰り返されていた自分の閉じた世界がおびやかされる。安定した死としての、自分の閉じた世界への安住がおびやかされる。恐怖を感じると同時に、死ぬほどに倦んでいるこの閉じた世界を終わらせたいという気持ちが生まれる。

 

現社会環境において、個人は強いものがつくるものに疑問を持たず、「社会」については既存の支配者にゆだねる。個々に孤立した消費の主体であることは歓迎されるが、思考の主体や応答の主体であること、強いものを強いものとして維持するための社会構造に異を唱えることはうとまれる。抑圧に埋没し、自分もその社会構造と一体化したほうが「楽」なのだ。自分自身を痛みごと乖離させて同じことを繰り返す機械になったほうが。閉じた世界はそうして形成され、強固にされていく。

 

個々人にとって、この社会での日常はあたかも実験動物たちがそれぞれのケージにいれられて一生を送るのと同じものになっている。人は実験動物と違い、ケージはなく、自由にどこでもいけるのだが、実験動物にとってケージによって仕切られた空間が世界であり、全体であるように、個々人も世界や社会全体のことなど考える必要はなく、仕事場と家庭など、自分が関わる限定的で部分的な、ケージのような空間が全てになるように社会構造から強く迫られる。

 

社会構造によって限定的な日常に閉じ込められ、現社会環境により従属し適応することを迫られる個々人は自らが直接に世界と関係を結び、そこに応答関係を作り出しながら世界との関係性と自分自身を更新していく主体であることが疎外される。近代以降、個人は考える主体であり、意思する主体とされるが、その「考え」や「意思」の自律性は自分自身が直接に世界と応答関係を作りだしていくことによって生み出される。

 

決まったケージにいれられ、自分に必要なものを世界とのやりとりから生みだすことよりケージ環境の維持が全てになった個々人は、自分の考えの自律性をもつ以前の状態であり、個人以前の状態であるのだと思う。仕事上で卓越したリーダーであればどんな歪んだことをしても自分個人の判断から批判することができず放置され、自分がどう生きていったらいいのかを知るためのツールをリーダーに作ってもらう。個人主体と言いながら、個人を個人以前にすることで、社会は人の精神を家畜化し、消費しやすい状態にとどめる。社会関係の不均衡は更新されないままになる。

 

この現状を抜け出ていくために必要なことは、個人以前にされた個々人がまず個人に戻ることだろう。そしてそのような個人は、ケージのような限定的な空間のみを自分の全てとしてそこへの適応に閉じこめられ、個々に孤立した「社会疎外主体」であるところから、あてがわれたケージの外の世界全体との応答関係を取り戻した「社会主体」に回復することによって取り戻されるだろう。

 

社会主体となった個人は、ケージの外全体を世界だと知っていき、同時に自分と世界とは隔絶することのできない一体性のもとにあることを知っていく。毎晩ベンチにいるからとうとまれて殴り殺されたホームレスと自分が無関係であるとは思わないし、自分がそのホームレスになる可能性がないとも思わない。現社会環境を前提とせず、自分ごととしてその環境を更新していく責任を自覚する。ケージの外の世界全体と直接に応答関係を作っていくことは、個々人に義務ではない、応答としての責任を取り戻させていく。

 

自分を「安全」に楽しませてくれていたように思えた「観客席」は自分が世界と応答関係を作りだしていくことによって生まれる喜びと信頼を犠牲にしていたのだ。苦しみを最小限で終わらせることこそ希望であるという絶望に生きていたとき、自分に流れこんでくるエネルギーはわずかであり、そのわずかなエネルギーを温存しようとするとさらに保守的になる。そこでは他者はイレギュラーであり、温存の邪魔をする存在だ。

 

だが世界と応答関係を作りだしていくとき、世界から自分へとエネルギーは大きくなる。保守的な温存ではなく、世界との応答性が維持されてさえいれば、あくせくしなくともエネルギーは勝手に流れこんでくることがわかる。重要なのは世界に開かれたあり方ということになる。世界への信頼は応答関係をつくりだすことでより疑いのないものになっていく。

 

個人以前の状態から個人が取り戻されるときも、その変化を支える動機は痛みであるだろうと思う。痛みは自意識に否応無く応答的であることを求める。痛みは自分がそれまで通りの自分であることを許さない。既知の世界に舞い戻り、それまでやってきたことの繰り返しに戻ることを許さない。そして痛みは他者を揺りうごかし、共鳴させる。ある人の痛みの発露は、別の誰かの乖離させられていた痛みを取り戻すきっかけを与える。

 

個人の自律性の獲得とは、社会によって疎外され、乖離させられていた当事者性の取り戻しともいえるだろう。当事者であることは、思考を誰かにお任せにし、与えられ、決められた範囲での文脈だけを自分の全てとすることではない。痛みを、リーダーによってではなく、自分が応答するものとして取り戻すことが当事者性を獲得することだろう。

 

社会から一方的に規定され、主体であることを奪われた人たちが痛みの主体を取り戻していく取り組みが「当事者研究」であるのなら「当事者研究」は限定的なツールの確立で終わることではないだろう。リーダーたちが「当事者研究」をツールとして限定化し占有してしまうことで主体の取り戻しが疎外されることが気づかれた今、この状況によって痛みの主体となった当事者たちがこの状況を乗り越え主体を取り戻していく「当事者研究」を生み出していく過程にあるのだと思う。

 

当事者性とは何なのか、組織やリーダーに場や人が受動的にされ、支配されてしまうときにどうしたらいいのか、そのようになってしまう環境の歪みを補う仕組みとは何か、問題がおこったとき組織外にいる第三者がどのように被害者の声が消されないサポートができるのか、必要なものやことを誰かに考えてもらい、用意してもらうのではなく、自分たちなりにあるもののつぎはぎや手づくりで間に合わせていくあり方を考えていく。