降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

動いていくこと 展覧会 山本麻紀子 いつかの話しあの人の風へ 

いつも第二水曜日参加している西川勝さんに紹介していただいた展覧会「いつかの話あの人の風」のトークイベントへ。

 

あなたのいつかの物語。
それは、むかしも今も未来も同時に踏んづける生命の足跡。
今日もそこに風がたつ。

 

 

京都市の「文化芸術による共生社会実現のための基盤づくり事業」の一環として実施する、アーティストの山本麻紀子による「ノガミッツ プロジェクト」は、総合福祉施設東九条のぞみの園の利用者・入居者、職員との対話から構想・展開されています。 

 

 

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山本さんのことを覚えていなかったのだけれど、以前ある催しで巨人伝説のプレゼンをしていた人だと気づきました。

 

今回、西川さんから教えていただけなければ、まるで知らなかった催しでしたが、トークイベントは素晴らしく、行けてよかったです。

 

僕は自分が感じられたり反応できる範囲は、平均的な人に比べてずいぶん狭いと思っています。いろんな人がいいと思ったり、感動するようなこともピンとこないことが多かったりします。アート系のイベントに積極的に行きたくなるというのはあまりなく、みても何の感想もなく帰る場合も多いです。

 

作品を理解したり、感じ取る感性はほぼ無しですが、アーティストの言葉には自分の反応がおこることが多く、何年か前もダンサーの言葉に関心が出て、色んなダンサーの人の言葉を聞いていました。

 

今回のお話しは、自分が考えてきたこと、なぞってきたようなことが、明確な輪郭をもって語られていたように思いました。自分が山の2合目にいるような時に、もう既に最後まで登っている人がいて、言葉にするだけではなくて、それを作品としている人がいるんだなあと。芦奈野ひとしの「ヨコハマ買い出し紀行」をみた時も思いました。もうこの世界に全て表現されている、というような。

 

山本さんが書いたA3用紙表裏の文章を引用しつつ、書いていきます。

 

山本さんは2016年からこの福祉施設がある東九条という地域に住まれていて、住み始めてからとにかく辺りを歩き回ったそうです。すると、様々な施設や家の前の植木に関心がいくようになったとのこと。植木の姿やその痕跡からは、この地域の人々の思いやしみこんだ「手垢」がみえるようで、そして山本さんはその植木からその持ち主である人と話しだしました。そして挿し木や鉢などを分けてもらい、その育て方を近所の人に聞いたり、図書館で勉強したりして大切に育てはじめたそうです。

 

僕は最近「時間」という言葉を使いはじめています。その「時間」とは生きているものの変容のプロセスであり、そしてお互いに影響を与えあう響きです。

 

たとえば、とても古いものをみた時、それに相応する独特の感覚が浮かび上がるのではないかと思います。遠い記憶にあるような、置き捨てられていたものを思い出すような、そんな感覚が現れてくるかもしれません。そして他でもないその感覚が自分に何かを想起させたり、自分のなかで動いている回路をつなぎかえて、自分の行動をどこかに導いていくときがあるかもしれません。

 

僕はそのように、人はある種の感覚、ある種のリアリティを喚起されると、そのリアリティの独特な自律性に動かされるのではと思っています。

 

また、ただ動かされるというだけでなく、あるリアリティが喚起された状態で体験することと、別のリアリティが喚起された状態で体験をすることは、全く同じようなことをしていても、別のものになってしまうと思っています。すると、たとえ同じ人の同じような行動であっても、喚起されるリアリティの数だけ、質的に違う体験がされることになります。

 

僕は、人はその人にとって、特定のリアリティが喚起された状態で必要なことを体験することがその人を肯定的な意味で変容させていくと考えています。個人個人にはその人が必要としている体験があり、その体験はその人にとって特定のリアリティが喚起された状態の時に、体験できるようです。

 

映画「スモーク」では、クリスマスの晩餐を用意して孫を待つ目の見えない老女の部屋に、別人である主人公が訪ねてきます。主人公は自分の家で万引きして逃げた男が落とした財布から住所を調べて老女の部屋にやってきました。おそらく万引き犯は孫であり、またそのように犯罪に手を染めて暮らしている孫は、捕まったか、トラブルにあったかで、約束の時間をずっと過ぎてもやってきていなかったのです。

老女はやってきた主人公を孫だと勘違いして喜びます。しかし、すぐのちに老女は主人公が息子でないことを気づきました。衝撃を受け、表情が曇りますが、やがて老女は諦めたように寂しく笑い、気を取り直して、主人公を孫としてもてなすことを決めたのです。

 

主人公には老女が本当に自分を孫だと思っているのか、それとも気づいていてなおそう振舞っているのかはわかりません。しかし主人公も老女のそのもてなしに孫として応じることにしました。老女は主人公が本当に孫かどうかをたずねず、主人公もまた自分の正体を明かさずに、老女が眠りにつくまでの間を過ごすのでした。

 

 

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ここでは、厳しく残酷なこの世界のなかで、どうやって人として必要な体験をし、生きていくことができるのかを知り抜いた老女の智慧があらわれています。やって来た人が本当は誰かなど、今はもう関係がないのです。孫が来ないことを嘆いたところで、やってきた人も自分も行き場のない気持ちに陥るだけです。

 

ならば、主人公を孫であるかのように、実際に孫を感じるように、この「時間」を一緒に過ごすということが、自分にとっても、また孫にとってもいいのではないか。そうすれば孫もまた、おばあちゃんを悲しませたという罪を負うこともないのです。やって来た主人公は戸惑うかもしれないけれど、ご馳走を振る舞うわけだし、これは人がどうやって生きていけばいいのかという、年を経た自分からの、これからまだ生きていく人間に対して与えられるレッスンになるのです。

 

こうして老女は、あたかも孫のように主人公と関わることで、自分にとって必要なリアリティを喚起させて、自分に必要な体験をしたのだと思います。あるいは赤の他人とそのような関わりを持ち、そこに喚起されたリアリティは、ある意味孫との関わり以上に奇跡的なものであり、老女の心を深く癒すものだったかもしれません。と同時に、そのリアリティは、主人公にも忘れ得ぬ深い体験を与えたと思います。このような「時間」は、持たざるものがその智慧によってつくりだしたものだと思います。

 

このシーンでの「時間」とは、人間に特別なリアリティが喚起され、そのことによって特別な体験がおこり、その人の何かが変わっていくプロセスそのものです。そして、そのような「時間」の体験は、その人にとって、繰り返される日常の感じ方を変容させるものです。「時間」はそれまでのような感じ方が終わり、次の感じ方がやってくるような更新、あるいは再生をもたらすものです。

 

僕は、人間は自分の感じられる世界を更新し、自分の生きている世界を更新するために、そのように特定のリアリティを喚起させるもの、つまり変容のプロセスとしての「時間」を呼びおこすもの、「時間」を動かしていくための特定のリアリティを喚起をするものの切実に必要としていると思います。

 

スモークの老女にとってのそのリアリティは「孫」であり、山本さんにとってはそのリアリティは植木だったのではないかと想像します。「時間」はその人と世界の関係性を再編し、再構築するような自律的なプロセスを内在させています。「時間」が動きだすことで、人は新しいことに興味をもち、新しい人と出会うきっかけを得ます。

 

「時間」が動きだすことで、自分が変わっていきます。自意識にとって不思議なことは、「時間」が動きだすことによって、全く知らなかった自分が現れることです。「時間」が動くと、知っている世界、知っている自分という、風景の牢獄に入れられていた自分がそこから解放されていきます。

 

植木たちが内在させている歴史や記憶、人との関わり、そういったものは、山本さんの「時間」を呼びおこそうとしていました。そして、そのノックに対して、山本さんは自分を開き、ゆだね、応答したのだと思います。「時間」は山本さんを導き、その時にいた場所とは別の場所に連れていったのだと思います。

 

2018年春。南部教会の近くの鴨川沿いを歩いていた時のことです。ある風と遭遇しました。穏やかで柔らかくて少し冷たい風邪でした。この風、覚えてる。以前、身体で感じたことのある風でした。これは一体何何だろうと立ち止まって目をつぶって考えました。目の前には桜の木がありました。

 

時を遡って2014年9月。一年ほどかけて通っていた宮城県南三陸町・長清水地区。海沿いの切り立った崖の上に畑がありました。すぐ側の雑木林に一本のびわの木。「この木は私がここにお嫁に来た時に植えた木で、一回枯れてしまったけれど生き返った。津波にも負けなかった。」その女性は、曲がった腰をそり返し、木のてっぺんを見ながらそうおっしゃいました。樹皮がはだけ落ち、傾きながらも空に向かって大きく枝を伸ばしているその姿に、私は、どんな人生も奇跡のように尊いと思いました。一人一人の物語は土地に宿る伝説になるとさえ思いました。その瞬間、びわの木から風が吹きました。

 

その風でした。3年半の時を経て、東九条の桜の木の前でその風に再会したのです。

 

その風は、南三陸町のあの方のように、東九条で力強く生きていらっしゃる、もしくは生きてこられた”あの人”の命の風だったに違いありません。

 

私はその時、ある場所(土地)に人が深く関わりを持って生きている・生きてきた時間は、その場所と結びついていつか風になると思いました。

 

”あの人”の人生の一部である物語。辛く悲しい物語も、怒りにあふれた物語も、不安でやりきれない物語も、その場に重ねられていく生命の循環と出会うことで、その悲しみや怒りややりきれなさを含んだ粒でできた風になるんじゃないかと。

 

心に突き刺さるような風。全身が熱くなって震えだすような風。なぜか涙があふれてくる風。

 

私は、そういう様々な粒をもった風を逃したくないと思いました。

 

 

ある「時間」は、それが記憶された時と同じリアリティが喚起されると、その続きが動きだします。スモークで老女の「時間」が動いたように、別の物語では失った恋人とそっくりな人が現れ、主人公は恋人の死によって止まってしまった「時間」を動かしていく契機を得ます。

 

桜の木の前で受けた風とびわの木の前で受けた風が同じということはそれが「客観的な現実」かどうかというような、現実が一つしかないという立場からは否定されるかもしれません。ですが、スモークにおいて、老女が主人公を別人と知りつつもてなしたように、人の精神の再生にとっては、「客観的な現実」は二の次のことなのです。自分のなかで止まったままになっているものが動くということが、生きるということなのだと僕は思います。

 

桜の木の前で受けた風がびわの木の前で受けた風だと感じた時、それは動くべき「時間」が動こうとしているということだと思います。精神にとっては「客観的な現実」よりも「時間」が動くかどうかが重要なのです。

 

山本さんが出会った南三陸の女性は、びわの木を自分と重ねていました。記憶のなかで「時間」は止まっています。

 

久しぶりに会う人をみて、すぐ痩せたり太ったりという微妙な顔の変化にまで気づくように、記憶のなかのものは更新されず、実際の時間が経過しても、そのままでいるようです。ある出来事や事件が1年前だった、5年前だったという時に、そんなに前だったのかというギャップを感じるのもそのせいではないではないでしょうか。あることが変わっていくプロセスを認識しないと、記憶のなかでそのものはいつまでも同じなのではないかと思います。

 

生きものである木に自分を重ねることは、年月による木の変化とともに自分像が更新されることであると思います。木の姿はどんなに克明にイメージしようとも、自分の想像したものとは違うものでしょう。木の変化は自律的なものです。自分であるはずなのに、想像していた(止まっていた)イメージと違う。驚く。そしてそのことによって、また自分像が更新されていくのだと思います。

 

津波を受けて、一度枯れ、なお再生したびわの木は、そこに自分を重ねている女性に知らなかった自分をみせ、その生を支えるものになったでしょう。

 

びわの木はもしかしたらすぐに枯れる可能性だってあったと思います。しかし、それでも女性は自然のなかに、やがて自分という歴史と同じように生きてきたものを見つけるのではないかと思います。それは彼女を支え、そして彼女が持っている悲しみや悼み、やり切れなさといった風景を更新していく基盤になるのではないかと思います。

 

悲しみ、やり切れなさ。生を受けてまず与えられるものは、自分が逃れようもなくつかまってしまったと感じられるもの、決してそこから逃げられることのないと思われるようなものと出会うことなのかと思います。そして、個々の人は、それでもそこから解放されていく精神のあり方を求めているのではないかと思います。

 

「生命の循環と出会う」とは、止まってしまったと感じられる自分から見える風景が、自分をこえる働きによって変わっていく、変えられていくことを知ることではないでしょうか。自分の力のなさ、小ささ、そしてそれによる絶望も、自分という個体をこえる働きがこの世界にあること目撃していくことによって、私というものはこの限られた身体に限られたものではなく、生きている全てのものと同じ働きのもとにあり、個体としての私がなくなったとしても、その作用、働きとしての生命は不死であり、その働きこそが本当の私であると知っていけるのではないかと思います。

 

その時、私は自由な風となるのでしょう。風はそして出会ったものを変化させていきます。山本さんは「粒を含んだ風」という表現をしています。粒とは人の体験したものでしょうか。それは記憶というかたちのないものよりも実体をもって他の人に影響を与えるものであるような感じがします。

 

粒を含んだ風は、同じような不安ややり切れなさを持つ人に対する共感でもあるように思います。同じリアリティを喚起するものによって、ある人の「時間」は動きはじめます。自分が背負った大きな苦しみは、風になったとき、同じ大きさの苦しみを持つ人の「時間」を動かす力をもてるのではないかと思います。

 

自分の中の変化に気づいた頃、これまでやったことがないことに挑戦したいと思うようになりました。染め、刺繍、陶芸、今回、人生で初めてのことでした。初めての手法で作品を作って、たくさんのお話をしてくださった入居者さんと、快く私を迎え入れて下さったのぞみの園の皆さんへ作品でお返事がしたい、そう思いました。

 

植物採集はとても有意義な時間でした。東九条と崇仁地区の空き地。鴨川。高瀬川。植物だけを見ての散歩は、様々な発見に溢れていました。こんなにたくさんの色が生活の中にあること。季節の移ろいを感じるようになりました。花も葉も散った木の前では、来年もあの美しい花がここに咲くんだろうなと思って通り過ぎます。大きな葉っぱを揺らしていた低木が、ある日突然根元の辺りで切られていて、私の頭の中にある町の景色が突然変わります。この植物どこかで見たことあるな、あ、あそこにもあったなと思うと、別々の場所がつながります。冬の間、遠くから見た川原の植物は枯れ果てたように見えても、近くに行ってじっくり見てみると様々な植物が生きていました。この地域は、こんなにたくさんの木や植物が生きている、とても豊かな場所だと思いました。

 

山本さんの文章を読んでいると、山本さんの選択は山本さんが選択しているのではなく、山本さんのなかに世界と呼応しながら自律的に動いているものがあって、その自律的なものが選択しているのではないかと感じます。その自律的なものが、ここまで自然に動いていくということに感嘆します。


山本さんは、自分の変化を感じたとき、なぜ「これまでやったことがないことをしよう」と思いつけるのでしょうか。そしてそのままに、その求めに応答していけるのでしょうか。僕はそのことに、山本さんをこえたものの働きを感じます。そして自分が同じようにできなくても、山本さんがそのように感じ、思い、そのままに応答していく姿に希望を感じるのです。ガチガチになって止まっているような自分のなかにも、山本さんと同じものが働いている、動いているということは信じられるような気がするのです。


植物採集で山本さん気づいていった世界のありようとは、自分という生命のありようだったのではないかと思います。たくさんの色、枯れ果てたように見える川原に生きている様々な植物、季節の移ろい、突然の切断、春にもう一度再生する花と葉、それらは全て自分というものの見え方、感じ方にかえってきたのではないかと思います。この地域の豊かさの発見とは、自分自身の生命の世界の豊かさ、様々な粒を持った風に応答する自然としての自分の豊かさの発見であったのではないかと思います。

 

植物の色をもらって糸を染め始めました。色をすりつけた時はとても鮮やかな糸として誕生しても、時間がたつとだんだん色が変化していきました。色あせや劣化とも言えるかもしれませんが、私にはこの変化こそが「今を生きている」ということだと思ったので、糸を染めた後に定着剤を使いませんでした。

 

入居者さんも、会う度に表情や選ぶ言葉が違うことがありました。最初は戸惑いましたが、これも今を生きているということです。

 

私も変化しました。おじいちゃん、おばあちゃんたちが大好きになりました。人生の大先輩です。

 

住んでいる地域のことをもっと知ろう。やったことがないことをやってみよう。豊かな時間がどんどん増えました。

 

人間は変われる。ものの見方であれ、考え方であれ、どんな小さなことであっても。東九条という場所は、そういうことを直に教えてくれる地域なのだと思います。変われるってすごいことです。昨日思いもしなかったことを今日思えます。世界が広がって、見えなかったものが見えてきます。

 

山本さんは、このプロジェクトにおいて、中庭をつくるということをされました。その際、病気がちになっていた花を咲かせなくなっていた梅は、職員からの求めもあって、切り、その場所を畑にすることになりました。山本さんは、そこで切られた梅からみた中庭の物語も書かれました。その物語において、梅は自分の場所と命を新しい生命に譲ることを受け入れ、その変化を暖かく見守り、応援していました。

 

僕は切られた梅に重ねられていたのは、それまでの山本さんだったのではないかと思います。自分という一人のなかにも、古くなったものが新しいものにその場所を譲るということが、自分という場所を再生させることになるのだと思います。

 

古いものと決別するとき、そこに痛みや犠牲、恐れや躊躇が伴うことは避けられないと思います。ですが、同時に新しい生命が動こうとしていることを感じ、そこに応答することで精神は解放され、感じたことのない新しい風景が広がるのだと思います。

 

生きることは、変わること。それは古いものとしての自分の死を引き受けることでもあるのでしょう。変わることは、それまでのものを維持しないという選択であり、別れを受け入れることです。別れを受け入れることが、自分のなかで動きつつある新しい生命に対する応答であるのだと思います。文章を読んでいて、真正面からの風を受けて逃げずに立つ姿がイメージされました。

 

この活動を通して、山本さんは誰よりも自らを新しくし、その変容の力が風となってその場所の環境を、風土を、人を変えていったのではないかと思います。新しくなるとはどういうことなのか、生きる、そして再生するということがどういうことなのか、山本さんが書かれた文章においても、余すところなく表現されているように思います。

 

山本さんが2014年に南三陸で出会った女性、そして粒を含んだ風とは、山本さんにとって自分が新しくなっていくために必要なリアリティであり、揺り動かしだったのではないでしょうか。きっとそのリアリティは、その時初めて体験したことではなく、遠い過去に忘れられ、止まっていた「時間」なのだと思います。植木たちは、そのような粒を持った風をそれぞれにもっていたのではないでしょうか。

 

誰のなかにも遠い過去に止まってしまった「時間」があるのではないかと思います。その「時間」はそれが止まった時と同じリアリティがもたらされる時、ふるえ、動きはじめる契機をもちます。私はその動きを感じ、応答します。そして古い自分が終わっていくとき、周りの世界もひきつれながら私は新しくなるのだと思います。動いているものを感じ、応答していく。その動きのなかにあるとき、私は生命の働きそのものとしてあるのかもしれません。

 

そうそう、忘れるところでしたが、もう一点。

 

展覧会で山本さんは何人かの入居者に小さな造形物を手渡しして、それぞれ手渡した瞬間の写真が大きく引きのばされて展示されています。何が山本さんからプレゼントされたのかは、入居者と山本さんしか知りません。その造形物は土の入った鉢に入れられて展示されいるのですが、やっぱり何が入っているかはわかりません。ただ、その横にあるハンカチの染や刺繍は、その造形物を受けての表現であるそうでした。

 

 明らかにしないことで、守られ、大切にされることがあり、明らかにされないことで、そこで想像されるものは自分にとって最も必要なものになるということも感じました。スモークで主人公と老女がお互い何も問わずに、ただ孫とおばあちゃんを演じたように。人が見たいもの、必要なものは、見えているそのものではなく、見えているもののその奥行きのなかにあるのかなと思いました。