降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

気づかない絶望 社会と個人の乖離

新しい問題がおこれば新しい専門家がそれにあたるというかたちで、専門家制度が整えられ、より万全になっていくことで社会の問題は解決していくのでしょうか。

 


専門家には専門家ならではのできることがあると思います。しかし、だからといって専門家でない人がその分何かを考えなくなり、それまで自分で調整できたことができなくなることは深刻な結果を招いていると思います。

 

社会福祉のことは社会福祉の専門家に任せ、保育のことは保育の専門家に任した結果、薬物依存回復施設や保育園建設に反対運動がおこるようなことは、社会と個人の生活が全く乖離したものになっていることの現れではないかと思います。

 

今は問題がなくても、いざ自分や周りに問題がおこったとき、自分が反対運動をした施設のお世話になるかもしれないという想像力は、学校教育で型通りに教えられたりするぐらいではうまく育たないのではないかと思います。

 

社会で何がおこっていてもそれと全く無関係に送れる個人の生活。「余計なこと」に首を突っ込まなければ安泰に送れる生活といったリアリティは実のところは全く現実とは違うわけですが、個々人としてはそのように問題と無関係で自分の生活は送れるものであると信じており、それだからこそ無関係でいられるはずの自分の場所の近くに社会が必要とする施設などが建設されては困るのでしょう。

 

仕事が免除された休日のように、日々の生活とは、社会から贈られた、社会と無関係でいられる時間であり空間なのです。「無関係であること」を与えられて喜ぶのは、奴隷の喜びであると思えます。

 

いつも監視されてプライバシーがないような地域に長く閉じこめられていれば、隔絶された「無関係」を得られることはそれはもちろん解放感のあることでしょう。しかし、そもそも無関係ということは苦痛が前提にされていない限り、何の価値もないものです。

 

強制であり、義務であり、苦痛であることからひととき解放される一時的な解放感をもし価値とするならば、その「無関係」は消極的な価値とでもいうものでしょう。息をするだけで毒を吸い込んでしまうとき、空気に毒がないことは価値があります。しかし毒がないことを喜ぶのは一時的です。消極的価値が価値と感じられるのは苦しみに対応する分だけであり、やがてその価値は無くなります。

 

消極的価値を頼りに生きていくところに生きる喜びなどはありません。苦痛の軽減がもし積極的な価値になるならば、そもそも生まれないことがあらゆる苦痛がない最高の状態になります。一度生まれてしまったものが消極的価値を価値だとするならば、生きることはそもそもの不幸をどうマシにするかということになります。それは絶望を生きることともいえるでしょう。消極的価値を頼りに生きようとしているとき、それは無自覚であっても絶望を前提にして生きようとしているのです。

 

絶望は自分の知っている世界を変わらないものと認識しているときにあります。自分の知っている世界、既知の世界とは、すでにそこでおこることが決まっている世界です。よって、その既知の世界は更新されていく必要があります。希望は、世界は自分がやりとりすることによって変わりうるという感覚がより確かになっていくときに生まれます。それは閉じた既知の世界に入った亀裂から漏れる光のようなものです。

 

問いを持ちながら、既知の世界の外の世界に触れ、自分で世界のありようを確かめることは、まるで一般的な認識にはなっていませんが、どのような個人にとっても必要なことであると思います。個人は自分の限定的な専門を除けば、あとは何も知らず、何も考えなくていいお金を持った消費者であればよいと社会は暗黙のメッセージを投げてきますが、自分自身で既知の世界の外を確かめることは、誰もが浸っている絶望から抜け出していく方法であり、支配されない人間であるための権利であると認識してもいいと思います。

 

 

回復施設や保育園など自分には必要ないと思いこめるまで社会と個人の生活が乖離させられた現社会環境において、自分に必要なこと(それは多分サービスになっていないものとしてあるでしょう)を既知の世界の外に出て、世界の実際を自分で確かめながらみたしていくことが必要でしょう。それを実行するための教育などは必要なく、二人でも三人でも集まって自分の必要において世界を確かめていく場をつくって試行錯誤していくこと自体が、自分をして世界と直接やりとりする体に変えていくための必要なリハビリだと思います。