降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

ワーキンググループについて 無香料日用品の簡易チラシづくりを事例にしながら

少人数で集まり、学びを趣旨にして自分にとって必要なことをする作業グループをワーキンググループと勝手によぶことにしました。


学びは余裕がある人や勉強好きな人がやるものだと思われているむきもあると思いますが、ここでは学びを自分が既に知っている世界から少し出て、そこでの体験から自分の知っている世界を更新し、新鮮さを取り戻すことだとします。

 

学びを媒介させる理由の一つは、場の環境設定です。
学びにとって必要なことは一旦自分の知っている諸々の知識や正しさなどを一旦置いて、自分の知らないことを探る謙虚な態度になることです。より知っている人が意見を言う場ではなく、それぞれが普段の繰り返しを一旦おき、知っていることや普段の繰り返しではないところに大事なことがないかとそれぞれが謙虚になり、探究的になることで、場はそれぞれの人のそれまでの認識を更新しうる生きた空気を生みます。

 

一方で、この意味での学びを媒介させないと、いつも声の大きい人や意見を通す人が場を支配して他の人には何もおこらない死んだ場になりやすいかと思います。
ワーキンググループは学びとは何かを知っていく場でもあり、自分と自分のなかで動いている、自分に必要なものを満たし次の状態に変わっていこうとするプロセスと自分との関係を近しくしていく場です。

 

自分で場をもったりするなど面倒臭い、そんな大層なことは自分にはできないと思うかもしれませんが、ワーキンググループでやることは、自分が無意識にイメージしている高い水準のことではなく、身の丈のことをやります。また長い目で見れば今やったほうが後々の手間が省けるようなことをやります。必要とも思えないことをやる必要もありません。

 

僕自身が香害の問題に自分もある程度当事者となって、周りをみたとき、割と少なくない個々人が苦しんでいる状況があるものの、個人で情報を集めても、それ以上何をやったらいいかがわからず孤立し、行き場をなくして強いストレスをためる話をよく聞きました。

 

孤立した一人の消費者として買えるもの、得れること、やれることでは、状況があまり変わらず追い詰められていくのです。自分と同じ気持ちを共有できる場が必要であり、そしてちいさくとも実際に環境を変えていくこと、この停滞状況を動かしていくことが必要です。

 

問題がおこるまでは気づくにくいものの、この社会環境において個々人は孤立した消費者として社会から個々に隔絶されていて、誰かとすぐに問題について話したり、考えたり、必要なことを自分でやっていくことができなくなっているのです。

 

孤立し、実態として個々に隔絶された消費者が、自分と社会の乖離をせばめ、自分と社会環境がともにある状態を取り戻していく媒体として、ワーキンググループが機能すると考えています。

 

香害については、自分自身もまだ日常生活ができなくなる水準ではないので、それほど積極的にこの問題に対して何かをやるということをしていませんでした。ですが、香害で孤立し行き場をなくす人の存在があって、自分としての応答をしていく必然を感じました。

 

まず、孤立しているとよりより追い詰められていくので、問題を共有する人や場が必要だと思いました。追い詰められると、柔軟剤を使っている人に殺す気かと怒ってしまったり、化学香料が平気な人達の鈍感さは同じ人間とは思えないと、敵意さえもってしまいうると思います。同時に自分自身の惨めさややるせなさが募り、自分を傷つけるような衝動にかられたりもするでしょう。

 

問題は社会環境と個人の乖離なので、まずはちいさな社会ともいえるグループを作ります。ただいきなり作ったグループでは、人間関係がうまくいかなかったり、お互いの要求水準が違うこともあります。まずは最初から問題を根本的に解決しようとするグループを作るのではなく、要求水準がそれぞれだったり、一緒に何かやれるかどうかわからない、ということが問題化しない集まりを作ります。

 

今月に、身の回りの人に渡せるような無香料の日用品の購入がどこでできるかを簡易に紹介したチラシを作ろうという集まりをしますが、このようにいきなり香害問題解決に向かうグループを作るのではなく、まずはやって無駄にならないことをやりながら、そこからこういうことやったらいいねとか、こうなったらいいねとか、そういう会話とか雰囲気とか動機が生まれてきたら、その水準にあわせたことをやったり、出てきたアイデアでやれそうなことをやるということを続けていくのがいいかと思います。

 

この過程で、自然な人間関係が生まれ、孤立した状態から社会環境の取り戻しがおこっていきます。ちいさな火を育てていくように、いきなり大きな薪(課題)をもってくるのではなく、社会から乖離させられた個人が社会を自らと繋がったものとして作りだしていくことが次の展開や可能性を生んでいきます。

 

そこで別に失敗してもいいのです。また小規模のことで、自分の身の丈のことで、無駄にならないことを一緒に作業する場を作ればいいですし、前と同じメンバーを誘う必要もありません。自分一人でやるのが苦手でできなければ友達と相談しながらやってもいいのです。

 

ワーキンググループは、単なる身の丈の作業グループでありながら、どうせ必要なことをやるという部分をグループに組み込むことで続かなくても無駄にならない集まりとなり、それでも一回一回が確実にちいさな社会と孤立していた状態ではつながれなかった人とのつながりを生んでいきます。

 

学びを趣旨とすることで、既存の社会関係で場が支配されてしまうことを避けつつ、自分にとって必要な人とのつながり、自分の社会を派生させるのがワーキンググループです。

 

直線的に問題解決に向かうのもいいですが、それがしんどくて大変なのではじめることもできないという状況があるとき、まずはちいさな自分の社会づくりの橋渡しとしてのワーキンググループをやってみることは無駄になりません。やる前から自分に無駄にならないことを選んでやるのですから当然なのですが。

 

自分の身の丈にあわせて、背伸びし続けずできること、孤立した消費者としての日常空間の外に社会関係をつくり、ちいさな社会をつくっていくことができると思います。ワーキンググループは直線的に問題の解決に向かうものではなく、問題の解決が可能になるような社会環境自体の豊かさを生みだしていくものです。

 

そしてそのようなグループにおいては、個人もおきざりにならず、よそゆきではない自分に戻りながら、状況を少しずつ変えていくことができると思います。誰か優秀な人につくってもらう場もいいですが、ワーキンググループは、身の丈の自分の調整で、2,3人からでもできる場です。

 

このようなことは別にワーキンググループと名づけずとも、前からやっていたという方も多いと思います。あえてワーキンググループと呼ぶのは、何か必要なことがあった時に、じゃあワーキンググループをやろうか、と色々な場所で同時多発的にことをおこしやすくするためです。

 

四国八十八か所めぐりのお寺(札所)に多くの人が参りますが、八十八か所めぐりというコンセプトがもしなければ、そこにただお寺があるだけでは、行かなかった人も多いのではないでしょうか。

 

実態として個人が社会から乖離され、孤立している現状があり、それに対する日常的な媒体として学びを趣旨としたワーキンググループというコンセプトがあることで、ちいさくあまり社会的な意味がなさそうな作業グループに新しい意味と動機が生まれると考え、あえてこのような名前をつけました。