降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

対話がおこりうるためのポジション お互いが変わりましょうという傲慢を抜けて

対話とは何か、しつこく考えている。この言葉がどのように使われているかを振り返ってみて、そこにあるエッセンス的なものを抽出していく。一度まとまった位置づけを作り、そして気づいていなかったところに気づけば、それも含めてもう一度全体像を構成してみる。すると、単に話しや話しの場のことではなくなり、さらには新しくつくる場や停滞していたある状況などに対する妥当な見方や向き合い方を示唆するものになる。エッセンスを凝縮していくなら、それは状況をひらいていくものになりうる。

 

対話には、他者、異質なもの、自分の理解の外にあるものとのやりとりということが含まれている。「対」という言葉に圧力や緊張を感じるという声があった。「対話」という言葉に「対立」というような要素を感じるのかもしれない。

 

「さあ対話をしよう」と誰かにいってみるのをイメージすると、対話である限りはそこに何か問題のようなものがあり、話さなければいけないことがあるのか、そしてなぜ自分がそういうことをしなければいけないのかとか、暗に批判されている感じみたいな感覚が浮かぶのではないかと想像する。

 

だがそれらの感覚は、対話がおこるにはマイナス要素だ。何かのテーマについて話すときも、最初からそれを「対話」だとあからさまに表現したり、掲げたりすると、対話がおこる状況からは後退する。

 

対話は「おこる」ものだと位置づける必要がある。それは対話を「する」ものと考えると上記のようなマイナス要素を平気で無視してごり押しする感性になるからだ。何かのいい技法ややり方を見つけたからといって、相手の状態も確かめずに技法にはめ、その実験台にして「成果」を導いてみたいという衝動に駆られた人はそれだけで自分を無視していると相手に感じさせ、対話が「おこる」可能性が減少する。

 

対話が「おこる」ものだと考えるとき、「する」ものと捉えているときと比較して、人は謙虚になり、対話がおこりうる要素を丁寧に重ね、整えていく構えになると思う。すると、対話の場をもつときに「さあ対話しよう」というようなあからさまな表現による後退要素を掲げるのは避ける感性が生まれるのではないかと思う。このようなことは非常に僅かなことだけれど、可能性を謙虚に重ねていくことができるようになると思う。

 

話しは戻って、対話という変容更新が「おこる」ものだと考えるとき、そのやりとりの対象には他者、異質なもの、自分の理解の外にあるものが必要となる。容易に自分に取り込めること、妥協して済ますことは、自分を変容更新に導かない。余計な緊張の高まりや不安は取り除く必要があるが、対話という変容更新が「おこる」ためには、相手を安易に考えたり扱ったり、なあなあにすることができない適度な緊張関係が必要だ。

 

糸が緩んだ「会話」は感情は発散できるかもしれないし、様々ないいところがあるかもしれないが、基本的には変容更新をおこさない。停滞の要因が自分の認識や世界観のほうにあるときには、変容更新に向き合うのが妥当だろうと思う。

 

また対話が「おこる」ものだと考えてそれがおこる可能性を高めると考えるなら、対話は問題を解決するためでもなく、相手を変えるためでもなく、自分が無自覚に備えている、まるで玉ねぎの皮のような、世界との関係性を疎外する認識の層を一枚一枚はいでいくことだと捉えていることも妥当な構えだと思う。

 

世界や社会の質は、剥かれていない玉ねぎが変えるのではなく、玉ねぎが剥かれていくことによって派生的に変わっていく。相手を変容更新させると考えるのは玉ねぎの皮をもう一枚増やすようなことだ。自分の認識の層を剥いていくということがあり、それを共にやってくれるものとして、相手が存在する。その位置づけの時に、停滞を生む余計な傲慢さが緩和され、変容更新はおこりやすくなるはずだ。

 

自分がもっている疎外を取り除いていきたいから、それを一緒にやってもらえないか、というスタンスには、融通性や相手に対する尊重、感謝がある。ヘルプを出しているのは自分だ。そういう内的位置づけも場の質を変え、場でおこることを変える。

 

モノと向き合う、モノとの対話においては、モノは変わらない。ただ自分の認識が変わっていく。相手が他者であり、決して妥協しないからだ。自分の認識が変わるしかない。ここでも対話というもののあり方が示唆されている。対話はお互いを変えるものではない。対話はそもそも自分のほうを変えようとする行為であり、そのために他者、異なるものとしての相手に存在してもらうのだ。

 

対話がおこったことにより、結果としてお互いが変わったとしても、最初からお互いが変わろうというのは、いいスローガンのようで、そこには傲慢さが浮き出ている。私は問題を知っている、あなたも協力せよというような。その態度、認識をもつこと自体が場の停滞要因となる。

 

一人では外せない古い認識の層を剥いていくとき、相手が必要になる。私にとって必要だという助けの求めとして、場ははじめられるものであると思う。そしてそこに応ずるものも、自らの疎外を自分で剥げないものがその場を通して疎外から抜けでていく助けをもらう。そう位置づけられるとき、場の深まりをとめるものが一つ取り除かれる。

 

対話はどうおこるのか、どうすればがおきる環境が整えられるのかということを踏まえるならば、対話の場はまず誰よりも自分を変容更新する場であり、自ら助けを求める場であるだろう。対話とは、自分自身の疎外を、自分とまるで違う他者としての相手の助けをかりて、乗り越えさせてもらおうとするものだ。お互いに変わりましょうなどと上から言えるものではない。