降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

地域における対話とは 

地域について、哲学対話について、対話する場へ。

 

ある程度物理的な広がりをもつ対象を想定するとき、対話という言葉を狭い意味での具体的な話しの場のこととしてだけとらえるのではなく、広い意味にとらえることが必要だと思っている。

 

広い意味において、対話がおこることとは、その場所に潜在していて動き出すことを求めてはいるが、それができない力の動きや高まりが動きだし、そのことによって動きだしたものの力が、その場自体とそれを構成するものをともに変容させていくことだと思う。

 

自律的なものが動きだすことを可能とするバイパスをつなげること。吟味すべき焦点はそこにあると思う。この場においてバイパスとは何なのか。そこから考える。力の流れはバイパスを使って循環し、場を更新し、そこにエネルギーを充たしていく。

 

関わる相手のことを理解し尽くすこと、知りつくすことはできない。むしろ理解したと思えたならそれは関わる態度としては後退している。どんなに知っても理解しても、何もわかっていない。

 

正解、保証、責任といったものを確実に提供することなどできない。関わりが裏目に出て、思わぬ損害をこうむることもありうる。人間関係というのは、そういったことを含めながらしかしお互いをそこに賭けることによって閉じたものを開いていくということなのだと思う。

 

人に関わる時、それがいいように働くとは限らない。だからそこに持ち出せるのは、必然と必然しかない。相手に必然がなければ変容をおこす関わりにはそもそもなり得ない。そして自分に必然になければ相手に関わり続ける力を持ち得ない。相手を自分の関わりの理由をすることは、自己放棄であり、無責任な態度だ。

 

対話とはお互いが異質なもののやりとり。お互いが異質なもであるものが、回避や抑圧という安易なあり方ではなく変容をおこすのは、必然と必然とのぶつかりあいである必要があると思う。

 

ある地域に引っ越してきたこと、親の介護が必要になったこと、小さいころ疑問に思っていたことに向き合う機会をもつこと、自分として生きていくために必要なこと。そういうものが人に必然を提供する。保証された結果などない。しかしやらなければいけない。お互いにそうだ。異質なもの同士の持続的な関わりを担保する理由はお互いの必然しかない。自分の必然とは何か。それを知ることは相手に対して尊厳するということであり、自分の力の源泉を知ることでもあるだろう。