降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

対話について 間接的に現れる第三者

対話ということは、単に言葉で話すことではなくて、むしろ言葉で話すというところだけに意識が向けられることによって技術とかコミュニケーション力みたいなところばかりイメージされるなら誤解や理解の後退が進んでいる場合さえあるように思える。

 

話しの場合の対話でも、そこで何がおこっているのかをみると、言葉やお互いの意図や意識からはみ出ている第三者というか、感じていなかった異質なものが人に入ってきて、それによって感じ方や考え方までが性質を変えられてしまい、影響を受けるように思える。

 

そういう意味では、対話という言葉の一般的な使い方はさておき、対話は「おこる」ことであって、対話自体を「する」ことはできないと思う。ただ対話という変容がおこりうる場を整えることはできる。

 

オープン・ダイアローグにおけるリフレクティング・プロセスは、場にいる人が一斉に話すのではなく、あるペアやグループが話しているときは、周りは口を挟まず、注視やうなずきなどを含めて干渉をしないという作法にのっとる。

 

規則で決められていて、自由じゃないじゃないかと思われるかもしれないが、放ったらかしの自由なんていうものに意義はないのだ。それはその場で一番強いものが周りを抑えて好き勝手するというだけの話し。それなら普段の状態があるだけで、わざわざ場をつくっている意味はない。

 

公平な場、自由な場というのは、事実上は放っておいたら好き放題して弱いものの動きを抑えてしまう強いものの好き勝手を「させない」ということによって成り立っている。だから強いものは普段通りできない。もし普段を当たり前と思っているならその場は不満だらけの堅苦しい場だ。

 

アットホーム感を大事にする喫茶店があえて入りにくい感じの入り口にしていたり、夜だけ営業するときにそうなってしまう客層を変えるために昼営業もして、昼の客層を夜の客層の干渉要素として使うというのも、求める自由さや「いい感じ」を維持するためだ。

 

大事にしたいことを大事にしない強いものが場を壊しながら好き勝手振る舞う蹂躙に対して、周到に工夫してなるべくこちらも直接的な強権を発動させずそれを抑える。それができるとき、人は尊厳や信頼が保証されている状態にいられる。

 

安心安全信頼尊厳が保証されたときに、いつもは牽制されていて出てこないもの、意識や意図からはみ出たもの、異質なものが現れ出てきて(それはときに「本当の気持ち」と表現されたりするかもしれないが)、場を変える。使う手法、場の持ち方は、あくまで作法に属するのであって、変容という出来事は主体同士ではなく、第三のものがおこすのだと思う。

 

ある作法にのっとったからといって、いつも人に必要なプロセスがおきる場を提供できるわけではない。あるプロセスがおこるには、それに必要な環境と適切なタイミング、度合い、かける時間がある。だからこそ様々な媒体や場所という多様性が必要だ。

 

もし人や自分に対して、必要なプロセスをおこす「対話」を提供できればと考えるなら、普段そのプロセスに対して抑圧的に働いていると思われる要素を取り除いたり抑えたりできる場をデザインする。普段その人を支配している抑圧的な秩序を抑え、それを打ち消す場を。逆にもし多くの場で、人が安心安全信頼尊厳を感じられるなら、話しの場に限らず、そこはどこでも「対話」がおこる場となるのだと思う。