降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

【報告】ジャンル難民学会発表会終了

第一回ジャンル難民学会発表会終わりました。7人の方の発表がありました。

 

フィールドワークをもとにした巨椋池についての発表、マルクスの価値形態論やお金についてのQ&A、対話とソーシャルネットワーク、路上ギャラリーの活動、ライブ当事者研究など様々なかたちでの発表でした。

 

ジャンル難民学会(私の探究・研究相談室)では、既存の制度や分野に必ずしもこだわらず、自分の関心のあることを探究して、そのプロセスをシェアしています。またその探究や研究と自分との関係も同じく重要視しています。

 

文化人類学社会学などのフィールドワークにおいても、自分というバイアスがどのように入っているのかということについてはより意識的になっているのかと思います。

 

最近は、客観的な視点、決められた手続きを厳密に守ればバイアスのない結果が得られるという立場から、バイアスは当然あるとみなし、どのようなバイアスが入っているのかがわかるように、調査の方法やプロセスをオープンにして他者から判断されるほうがより妥当なのではないかという立場のほうにだんだんと移行しているのかなと思いますが、どうでしょうか。

 

ジャンル難民学会は、哲学カフェが哲学の民主化とよばれたり、当事者研究精神分析やカウンセリングの民主化と言われたりするように、探究の民主化を一つの趣旨としています。

 

素人がやることは信頼できないし、大したものができない。だから探究や研究は専門家に任せておけばいいというのは、一面において正論ではあるかもしれませんが、大きな弊害をもたらしていると思います。

 

人が自分自身の感じられる世界を更新していくためには、自分の関心や興味に応答しながら直接に世界とやりとりすることが必要です。それをやめてしまうと人は自分自身の既知の世界を更新することが難しくなります。また情報を吟味する力も弱っていきます。情報の価値を自分の感覚ではなく、誰が認めているのかというふうに、権威の判断にまかせるようになってしまうのです。

 

ジャンル難民の集まりでは、自分というバイアスを歓迎します。自分がなぜそのことに関心を持つのか、それをオープンにして、その人の発表を面白いと思ったり、妥当だと思うなら自分の吟味で取り入れる。それでいいと思っています。結局リテラシーというものも、自分の感覚を使ってトライアンドエラーを繰り返してようやくリハビリされるものであって、それなしでは育たないし、維持されないのです。

 

僕は人の回復について関心をもっていましたが、やがて回復自体を目的にして何かに取り組むと回復が停滞するというジレンマがあることに気づきました。それよりも自分にとっての核心的な興味や関心の探究をするということのほうが、結果的に人を変化や回復に導くという理解にいたっています。

 

探究においては、回復を目的化することによる回復の停滞のような弊害は最小限になり、一方で見えてくる世界、感じられてくる世界が変わっていくということがおこります。自分が深く関心を持っていることに対して応答することで自分の感じ方は変わっていきます。

 

探究とは、自分のなかにおこっているプロセスに応答していくことです。応答を続けていく時、人は最も学び、変化し、より自分自身となっていきます。回復とは回復を続けることというのは、自分の内側からの非言語的な打診に対して常に応答していくということです。「ヨガがヨガを教える」という言葉があるように、応答することで応答するとはどういうことかがより深く理解され、把握されていきます。

 

発表のなかで、イタリアの精神病院が閉鎖されてきた統計が紹介されました。60年代を境にイタリアでの精神科の病床はゼロへ向かっています。一方、1964年にライシャワー米大使刺傷事件がおきた日本では、そこから急速に精神科の病床数が大きく増やされていきます。踊り手が裸で踊ったというだけで精神病院に入れられたという事例のように、精神病院の病床は患者のために増やされたのではなく、米国への忖度を動因とし、国にとって都合が悪そうな人を早くに収容し、閉じ込めるための機能を担っていたのでしょう。

 

また入管法朝鮮戦争からの難民を送り返す意図に基づいて作られていたことなども紹介されていました。古い価値観で作られた制度がその原型をほとんど変えず残っている社会で、国のことは国に関わる人に任せばいいと放っておいた結果が今の社会なのでしょう。

 

発表のなかで「自由こそ治療だ」というメッセージとともに、二つの絵が紹介されていました。全身を牢に入れられた人の絵と、首から下は解放されているけれど、頭だけは牢が残っている人の絵です。頭にかけられた牢屋とは、人の内面が縛られた状態のままであることを示唆しています。

 

頭の自由はどのように解放されるのでしょうか。

 

人間を人間として扱うということに反した古い制度がいまだに残っているこの社会で、内面化された価値観から出ていくためには、自分で自分を更新していくという営みが必要であると思います。

 

現代の人にとって必要なのは、頭の牢屋から自由になることであり、一度内面化されてしまった価値観や制度から自分を解放していくことではないでしょうか。自分自身の深い関心に基づく探究には、自分自身の価値観を更新する働きがあります。専門家などの限られた人だけでなく、誰もが自分自身の関心に基づいて探究することの必要性はここにあると思っています。