降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

世界への信頼の回復 探究と希望

明日19時からは本町エスコーラで私の探究・研究相談室です。

 

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世界への信頼の回復とは、世界が自分にとっていい意味で未知であり、応答的な存在であるという実感が出てくることかと思います。

 

自分にとっての世界像が変わらないのに、自分の価値だけがなぜか高まっていくのなら、常識的に考えて、それは自分が見えなくなっているということなのではないかと思います。世界像の変化の反映として、自分像も変わるのだと思います。

 

世界はこのように危険で荒野なのに、そんなものが信頼できるはずがないと思うかもしれませんが、世界全部を信頼する必要はなく(それも自分のイメージにすぎませんが。)、自分の感じかたが更新される世界との「接点」があり、それを見つけ、そこと関わり、やりとりを続けていけば、それで世界像は更新されうると思います。

 

自分はこんなに素晴らしいと確認できるようになる必要はなく、世界には自分が知らないことがあるのだとあらためて知り、知らなかったその精妙さを驚きとともに実感するということがあれば、精神の新陳代謝は動きだしており、絶望に追い込まれるのとは逆の方向にいきます。

 

パウロフレイレは『希望の教育学』という本を著しましたが、「希望」という言葉がこの世界の現実に対しては、やや純朴すぎるのではないかという批判がありました。しかし、希望というのは、自分のなかにあった古い世界像が更新されることなのだと思います。

 

その逆で、絶望とは既知のもののなかに閉じ込められ、決して変わらないと信じてしまうことであるのだと思います。

 

自分が知っているものが、自分が思うかたちで、良いように変わることによって希望が生まれると思われがちです。もしそういうことでしたら、フレイレに対する批判も理解できそうです。

 

しかしそういうことではないのです。ニュースを聞いて、ああ、いいことが何もないなと思ったとしても、自分のなかの決定された古い世界像が更新されていく接点をどこかでもっているなら、希望は生まれてくるというわけです。希望とはそもそもそういうふうに生まれるものだと、フレイレは指摘しているのだと思います。

 

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もちろん、すぐ自分のものの見方が変わっていくような接点を見つけられるわけではありません。その手がかりをもっていたとしても、それは自分の知っているものの少し外にあるからです。だから探究していくことが必要です。そしてその接点を見つけたならば、それに応答していくことです。

 

応答もまた、今までに自分がもう知っているやり方を繰り返すようなことではありません。応答も知っていることの少し外にあるのです。応答の仕方も探究していく必要があります。

 

探究ばかりではないか、いつゴールなんだ、ゴールに着かなければ意味がない、と思うかもしれませんが、そのゴールは古い自分が決めたものであって、ものの見方が更新された時にはもうゴールではなくなっているのです。むしろ、それをゴールだと思っていたことが、自分の停滞の原因だったという理解さえその時にあらわれるのではないかと思います。

 

自分がもう知っているゴールに着かねばと思うから遠く感じ、しんどいのであって、精神の新陳代謝をしていくことに目当てを変えて、それを探究していけば、楽になっていくと思います。それは過程を生きるということでもあります。

 

探究とは、自分のなかでもう決まってしまったゴールを変えていく営みともいえるかもしれません。決まってしまったゴールこそが自分の息をつめていくのかもしれません。

 

探究するとき、自分の感性や直感がもっとも働く状態をもってこようとすれば、自然と自分に着地し、地に足が着きます。自分が無理して頑張ったりしても意味がないことがわかり、現実的な歩みが生まれてきます。