降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

【報告】ジャンル難民学会発表会1日目

ジャンル難民学会発表会の1日目が終わりました。

 

今は無くなった巨椋池のフィールドワークの発表、境毅さんの「お金」に関するQ&A、僕の人間の変化についての発表、そしてまた今日の午後の発表は、「対話とソーシャルネットワーク」や「揺らぎ」の発表があります。

 

昨日の自分の発表をしてあらためて思ったことは、自分が考えたことの全体像が自分で把握されていないなあということでした。個々のトピックでは考察したことが、全体像のなかで配置できていません。

 

たとえばこれまで10のトピックを考察してきたのに、そのうち5のことを配置して、残り5つをいれ忘れているといった具合です。

 

ちょっとでもまとめます。

 

書くときは、一つのトピックを掘っていくようにしか書いていないので、端的に箇条書きでいきます。

 

(ちなみに、僕のやっていることは、まず直観的に得た仮説があって、その仮説で実際のケースをみていくとどうなるだろうということの繰り返しです。)

(大事だと思っていることは、仮説を通してものをみると、それを通してみないと気づけないことが出てくるので、その出てきたものをたくさんみるということです。)

(仮説とはあることを見るためのメガネのようなものであると思っていて、水中メガネがないと裸眼で水の中でモノが見えにくいように、仮説を通してはじめて見え、気づくことがあります。)

(当初の仮説自体はもしかしたら後で違ったなと思って捨てられるかもしれないけれど、とにかく仮説のメガネ効果によって、見えていないものが見えるというのが重要であって、仮説を通してどれだけ見たかが、結局は仮説の妥当性を判断する基準にもなります。)

(その仮説が妥当かどうかがはっきりわかってから、その仮説に意味があるのではなくて、仮説を通してどれだけたくさんの事例をみるか、ものをみてみるかが、自分の理解を前進させていきます。)

(なので、仮説を通して見ることは、手段でありながら目的であり、むしろ最終的な理解はこの作業の蓄積の結果として自然に、派生的に現れるものと考えています)

(間違っているかどうかを不安に思って同じところでうろうろしているよりも、どんどんと見ることで結局は間違いもわかるのだから、仮説自体の妥当性を気にするより、どんどんそういう目で事例を見て、こういう場合ならどうだろうと想定していくことで理解は前進していきます。)

 

 

◆人間の精神には気が循環していると仮定します。

1 人間の身体に血管が張り巡らされ血液が流れているように、精神には気が流れていると想定します。

→「気詰まり」がしたり、「気持ち」が悪かったり、「気が滅入」ったり、「気に入」ったり「「気にかか」ったりします。気が科学的にどうこうとか、ここはあまり厳密に考えず、このように表現されているもののことだとします。実際、生きている分には気が科学的に証明されるかどうかよりも、どうやったら気が滅入らないかとか、気詰まりが緩和するかという、実際に「気」と呼ばれているものの理解や運用がしたいわけなので。

 

2 精神の気の流れは、血流と同じく、自分でコントロールするものではなく、自律的であるようです。

→そして気の通路には色々な障害物が入ってきます。気にかかることが増えれば、その分気の流れは停滞しますし、過去にあったことが気の通路を一部塞いでいれば、そのことが気の全体の流れに影響します。

 

3 気の全体の流れが、よい状態で循環することが、自分の求めになります。

→気の循環があまりに動かなくなることは人間にとって耐え難く、その著しい停滞を打開するためには犯罪すらおこしうると考えます。気の流れの停滞を直ちに回復しなければいけない状態まで追い込まれると、長期的に損か得かなどを斟酌する余裕はなく、ただちに一時的な解放のための行動をします。

 

◆言葉と気の循環との関係

 

4 言葉をもち、世界のなかで自分がなんであるかが決定されることは、気の循環にとっては良くないものだと思われます。さらにいえば、言語の世界に入ることで、人は不可避的に根源的な欠陥の感覚をもつようです。

→事例:明日はこれしなければいけないと考えて気が滅入る、自分は世間的にはこういうもの(たとえばニート、病者、美醜など)だと同定(アイデンティファイ)されてしまう。例:岩山に貼り付けられて毎日ワシに内臓をついばまれるプロメテウス神話。

→なので、気の循環からすれば、言葉がもたらす世界は本来なら放逐したいものだと思います。精神科医中井久夫さんがたしか、統合失調症は生命が自分を壊しても生きようとする姿だというふうに言っていたのを記憶しています。

 

5 言(こと)分け構造と身分け構造があり、言葉は前者。

丸山圭三郎は、人は言語で構成される「言(こと)分け構造」と身体や生命など自律的な働きである「身分け構造」の二つの構造によって成り立っているとします。そして言分け構造は身分け構造に陥入しているとします。僕の言葉でいえば、言分け構造は、身分け構造に寄生し、管理操作しようとしているOSのようなものであると思われます。言分け構造があまりに身分け構造のあり方を疎外するものであれば、本来の主体である身分け構造は反乱をおこし、病態のようなものをつくって現在の言分け構造を解体しようとし始めます。

 

6 自意識=自分=言分け構造

→意識される自分、意思的に動かそうとする自分は、言分け構造に属すると思われます。生命の本体の身分け構造ではなく、生命に陥入し、寄生している機械プログラム(言語によって構成されている)が意識される自分なのだと思います。よって、この自分を本来のものと考えるところにはそもそもの間違いがあり、矛盾や破綻があります。近代における主体とは、意思する主体、思考する主体であると思いますが、これらは言分け構造です。言語を持った人間は言分け構造と身分け構造という二つの構造でできているのに、一方だけを主体と見るのは誤りであると思います。そしてそのことが様々な歪みを生んでいると思います。

 →認識される自分はどこまでいっても言分け構造です。なので、身分け構造に対してなるだけ応答的な言分け構造になるというぐらいのことしかできません。

 

7 言分け構造の本質的欠陥は生きていない(自動的更新がない)ということ。

→言分け構造は言語によって構成されたプログラムのようなものなので、自律的に更新できない。放っておいても、新しいことに適応できない古いOSが居座り続けるようなことになる。これは結局、言分け構造である自分にとっても不快な状態であり、退屈で倦んだ過去の世界にずっと居続ける感覚になります。

 

8 言分け構造の更新が学び

→古い風景が変わらない状態、世界の感じ方が変わらない状態が更新されることが学びであるといえそうです。原生林には管理の必要がないのに、人工林には常に管理が必要なように、言分け構造は自律的に更新しないので、積極的に働きかけて更新することが必要になってきます。

 

9 殻と学びの関係 自分とは防衛反応として現れた「殻」

→人は言語の世界に入ることにより、根源的な欠陥と傷つきを受けます。その欠陥の感覚と傷つきに対して身分け構造を守るために現れてくるものが、自分という殻であるかと思います。根源的な欠陥の感覚や傷つきは、言語の世界に入った以上持ち続けるものなので、放っておけば殻は自らを厚くしようとします。殻は過去の記憶を前提に暑くなるので、新しい世界との応答性はより失われていきます。しかし、殻が厚くなることによって、自他の身分け構造との応答関係はより阻害され、感じられなくなっていきます。学びは、感じられる世界が更新されることであり、学びによって殻が異常に厚くなりすぎることは緩和されます。

 

10 人間の抱える自己疎外とそこからの回復のあり方 環境を設定する

→学びは感じられる世界を更新することによって、殻が暴走的に厚くなり自他の疎外を強めることを緩和できます。しかし、殻のもつ保守性、自分自身を厚くしようとする傾向には、常に意識的な注意が必要であると思われます。また殻は変化を認めたくないものなので、たとえ身分け構造由来の自分を更新する自律性があらわれてもそれを抑圧しようとします。殻は言語によって構成されているので、殻の防衛反応がなるだけあらわれない環境設定にし、殻が必要ない状態になると、身分け構造由来の自律的な更新の働きが殻の統制状態の間隙を縫って動きだし、そのプロセスに応答にすることによって、更新がされます。

 

11 根源的な欠落の感覚は生きる充実の源でもある

→自分の問題とは、言分け構造の問題であるともいえます。言分け構造を更新するには、殻の保守傾向をやり過ごし、身分け構造由来の自律的なものを活性化させることが必要です。といっても、環境設定をしたり工夫をするのは言分け構造である自分の仕事です。どのように言分け構造の更新をしていくかというときに、根源的な欠落の感覚や痛みの感覚が軸となります。生きものは、かかってくる圧力に対し反発して生きようとする力を持っています。身分け構造に陥入した言分け構造が根源的な欠如や痛みの感覚をもつことによって、身分け構造はそれに反発する強い力を常時発しています。その力を使うことができます。自分が本当に充実すること、救われるように思うことは、世間の評価や金銭的な割の合わなさをこえて、自分のもたらすものが多いということが実感されると思います。人がある行為を割に合わないと思っていても、自分にとって割にあうという行動がそれぞれの人にあるのです。それはそれぞれの人の根源的な痛みや欠陥の感覚と関係しています。

 

12 根源的な痛みや欠落の感覚を軸に身分け構造とそこに連動する世界と応答的な関係性をもっていく

→根源的な痛みや欠如の感覚に応答していくと、殻の防衛反応は弱くなっていきます。それは殻の疎外性が弱くなっていくということでもあります。殻の疎外性とは自分の身分け構造に対する応答性であり、そして自分の周りの環境に対する応答性です。この応答性を回復していくことが、より殻に頼らない、自他に疎外的でない自分の状態を生み出していくと思われます。