降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

追記:時間を動かすこと

<追記:時間を動かすこと>


時間については、少し前までは「自律的なプロセス」などと表現していましたが、身体教育研究所の稽古で時間的移動と空間的移動という捉え方をもらい、あと境毅さんの著書『モモと考えるお金と時間』で時間とはいのちなのですと書かれていたところなどからもらいました。

kurahate22.hatenablog.com

 

最初はそれまで「自律的なプロセス」と呼んでいたものを「時間」という言葉にするのは、かなり思い切った、割り切ったメタファー化だなあと感じましたが、呼び方をそう転換してみると、むしろ「時間」という言葉が見え方を広げてくれたり奥行きをくれたりするのがわかりました。

 

誰かに何かしたいことがあって、それをやりはじめることを「誰々の時間が動きだした」というふうによくいわれますし、そういう日常語としての用法もないことはないので、むしろ慣れれば直観的に把握しやすい、使える言葉になると思っています。ただ使い勝手がいいというだけでなく、世界の見え方が変わってくる言葉です。

 

(ジャンル難民たちは「雑食」で、自分が使える素材を領域問わずとってきて、それをコラージュして思考をする傾向があると思います。探究には使える素材(言葉・考え方など)と使えない素材があり、ジャンル難民たちは、世間で流通する一般的なものだけでなく、自分の探究に適した素材を組み合わせて思考します。いわば「野生の思考」です。そういう人を挙げるならば、自分は「古武術研究家」というよりも「創作武術家」であるという甲野善紀さんや『ハーモニー』の伊藤計劃がその例だと思います。)

  

甲野善紀さん

私は自分のやっている事を「古武術」という名前で名乗ったことはありません。ただ、私が研究している事は、剣道や柔道といった現代武道ではなく、古田の武術の世界ですから、古武術研究者と言われても当たっていない事はありませんが、あまり落ち着きません。
 なぜ「古武術」と自らは名乗らないのかというと、「古武術」とは本来、昔から代々伝わっている特定の流派に対する名称だからです。したがって、私の立場を正確にいえば、古の武術を研究して、それを手がかりに自分自身で新たな動きを開発している「創作武術家」という事になるでしょうか。


私は二十二歳の春頃、「何か武道をやりたい」と思い、まず合気道を始めたのですが、いざ始めてみると、合気道の開祖植芝盛平翁という人には、まさに昔の名人達人を思わせる凄まじいエピソードがあったのですが、合気道はその後、武術として「出来る」という方向よりも、多くの人が親しめる武道の方向に向かっていきたいと思っていた私は、「本当に『出来る』武術の技は、このまま合気道の稽古を続けるだけでは身につけられない。これは自分で探究するしかない」と考え、前述したように松聲館道場を設立、独自の道を歩み始めたのです。
甲野善紀『驚くほど日常生活を楽にする武術&身体術』

 

伊藤計劃

wired.jp

ハラリは、SFの中でも特権的作品としてオルダス・ハクスレーの『すばらしい新世界(Brave New World)』に注目する。そこで描かれるのは出生時から管理された楽園であり、ユートピアディストピアが鏡映しになっているような世界だ。そしてITとバイオテックの融合による身体侵襲が当たり前になる現実の近未来の延長線上に、そのような世界が待っていると見立てている(ちなみに『すばらしい新世界』の刊行は1932年であり、同時代的には、優生学を含めて「身体」や「健康」にことのほか関心を寄せていたナチスドイツの台頭期であったことには留意しておいてもよいだろう)。

もっともこの点では伊藤計劃の『ハーモニー』のほうが、世界保健機関(WHO)を頂点とした〈生府〉によって徹底される個体ごとの人間の生の管理体制という点でも、それら管理体制に対する(個々人の個別具体的な)身体からの反発という点でも、よりハラリの想定する近未来に近いと思われるのだが、どうだろうか。

 

→メタファーについて