降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

話しの場で 探究と殻との距離感

話しの場について数人で話しました。

 

なぜ人が、社会の実際がこうなっているのかを考えてきて、やがて人が生きてくるなかで不可避的に、自動的に作られる殻があるからだと思うようになりました。

 

殻は自分の感じる根源的な痛みを感じなくさせるために形成されていくようです。何かができるようになったり、ステータスを高くしたり、強い高揚や刺激を常時補うことで、その痛みはだんだんと感じなくすることができます。

 

痛みを感じる身体をもったわたしが、殻を厚くするにつれ、わたしは痛みを忘れていくことができます。あるいはとても遠くへ押しやったままにとどめられるようになります。それが「普通」になります。

 

こういうと、それは特殊な人の話しだと思われます。

 

「私は私に気づいている。」「私は(本気になれば・条件が整えば)本当の私を生きられる。」「私(という自意識)は自分を変えていける。」

 

そのように思うことが、既に今の殻を守るための自動的発想なのに。「自分はどうなっているかな?」「自分がそうだと思っていないふうになっているかもしれないな?」と自分を探ってみる前に直ちに否定し、そんなことはないと「訂正」せずにはいられない。

 

僕は殻の優位は圧倒的なのだと認識していて(それを絶対否定したい人がたくさんいるのもわかるのですが。)、自分はそれが自分の発想や判断だと思っても、ほとんどは殻が殻を守るための自動的反応に過ぎないのだと捉えています。

 

バランス感覚がある感じの人はしゃべり方も、自分は今こう思っているけれど、自分が自分を騙している場合もあるし、というスタンスをとっているように思うのです。自分自身の考えも本当にそうかなと吟味しながら、観察しながら話しているように見受けられます。

 

お互い、殻の反応が9割で、それを前提として、残りの1割ぐらいがどうやったら出てくるかなあというぐらいのリアリティでやれたら、場も和むし、焦点あてるところにキュッと焦点がいきやすいように思うのですが。

 

ただ探究すること、それがどんなメカニズムで動いているのかを実際に探るということを、話しの場では一緒にやりたいと思っています。

 

自分が話しているときは、今自分がそう思っているけれど、感じていることと今言ってることが本当に一致しているか、今、実際に感じていることをトレースし直す気持ちで話す感じはどうかなと思います。

 

探究しながら手触りを確かめながら話している人の話しは、まとまり云々ではなく面白いと感じるのですが、それはそこで新しいことがおこっていて、何かの変容がおこっているからではないかなと思っています。

 

そうすると、その話しの場は、論の展開の場というよりも、自分の思い込みを崩して、そこからみえる新しい風景を楽しむ場というおもむきをもつのかなと思います。