降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

当事者が自分で自分を回復させていくときに

治療者側の視点からの、現時点でわかっている回復のあり方、もちろん貴重な知見だと思います。

 

しかし、当事者側は、治療者の眼差しを自分のなかにいれて、ああ安全感を十分に持ててないなとか、他人に対する信頼感が不足している、肯定感が高まってないな、それだと次にいけないのだとか、現状を踏まえれているなら、うだうだと考えなくていいと僕は思っています。

 

傷つく前の人はそれまで作り上げてきた殻に守られています。しかしその殻は安定を重視するため、自分の底にある傷や痛みに対して、人が本来的にもつ痛みを感じないようにできています。そして殻は本来的な自分の痛み、つまり本来的な自分の求めより、安定を選び、閉じて出ていかない力のほうが優勢になり自分を支配するようになります。

 

しかし受難によって、その殻が深く傷ついた時に、人は生存の危機を招くとともに、本来的な痛みであり、本来的な求めに応答する力と可能性を得るようです。

 

その本来的な痛みへの応答は、今まで積み上げてきたことの延長では行けないような困難なことですが、そこへの応答を続けていくことにより、より大きな力や納得が自分にほうにやってくると思います。

 

治療した後、回復した後に本当の生がはじまるのではなく、殻が深く傷ついた時に、以前よりも本当の生がもうはじまっているのです。傷が治るイメージをもって、傷つく前にいた地平に戻ろうとしても、力が出ないし続かないのがわかるでしょう。この今現在の自分の体が動くことは限られていて、そのなかに展開する種があるのです。

 

本来的な求め、それは自分の本来的な痛みに根ざしているようです。そしてその求めに応答することによって、自分はより自分と一致した感覚が生まれ、歯車が整っていき、新しい力がやってきます。それが自分にとって頼れる力です。それを軸にすることによって、「治療」とか「回復」とか、「メンヘラ」から脱したか脱していないとか、余計なことは考えなくても、回復的な変容がおこってくると思います。

 

「信頼感」とか「自己肯定感」が高まったら次にいけるというふうに考えて、それぞれをあげるための細かいライフハックの獲得と蓄積に専心するより、応答の軸を見つけていくことのほうが疲弊は少ないと思います。「信頼感」とか「自己肯定感」それ自体を上げようと目的にするのではなく、それらは自分が応答すべきことに応答していたら派生的に回復していくと考えたほうが無駄な停滞を避けられると思います。

 

僕は物語が人間の心の動き方を提示していると考え、物語やファンタジーに注目してきました。現実に存在する人たちの回復のあり方と、物語において繰り返される回復のパターンを気にして見てきました。

 

物語は、繰り返す日常ではあまり得られないリアリティを提供します。そのリアリティが提供されるとき、自分のなかで止まっていた「時間」が動きだし、とむらいがされていきます。

 

児童養護施設を出た若者が、かつての自分と同じ経験をしているであろう子どもたちを支援する団体を立ち上げたという話しが放送されていたのを見た記憶があります。

 

やさしさと理解に溢れ、自分を守り育ててくれる誰かが現れるのをいつまでも待つ必要はないのだと思います。かつての自分のような存在、あの時のリアリティを喚起させるもの、そういう相手に対して、本来自分がそうされるべきだったケアを提供するということで、自分は回復していくと思います。何かが提供されるのを待つのではなく、むしろ自分が提供することによって、速やかに回復はおこると思います。