降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

自分の仮説 言葉の世界の位置づけ 先行知と後知恵

西川勝さんの星の王子さま読書会で、色々なものをもらっています。

 

僕にとっては、西川さんは物事がすぐ欺瞞に塗り固められ、その欺瞞に何も感じなくなってしまう世界に亀裂をいれてくれている人です。その亀裂から出る響いてくるものは、しばらく自分を正気にとどめ、ものを感じ、見る状態にしてくれます。自分の見える牢獄のような風景を変えうるしばしの機会は、そのような時にもらえるのだと思っています。

 

その西川さんが、「先行知」と「後知恵」について話していて、その区分は以後の自分のなかにはっきりと根づきました。先行知とは、未来を予測する知であり、どのような働きかけをすればどのような結果がでるかということの知識です。福祉や医療に従事する専門家は、膨大な先行知をもって支援する人にあたります。教科書に載っていることは、先行知だけです。

 

一方、後知恵とは、先に知ることができない、いわば失敗を通して学ぶ知です。僕にとってはそれが人間をして人間にしていく知なのだと思えます。しかし、社会は先行知をより重要視し、先行知で世界を充していこうとしています。しかし、先行知に充たされた世界とは、同時にその知を過信し、傲慢で充たされていくような世界ではないでしょうか。

 

どのような再現性をもっていたとしても、先行知とは過去なのです。先行知は働きかけるものを思うように変えるための知であるともいえるでしょう。しかし、相手を変える知とは、そのことによって自分を変えない知にもなるのではないでしょうか。

 

先行知と一体化することによって得られる確かさと誤りのなさへの安住は、そこから出ることを恐れさせ、目の前の生きているものに対する応答性を奪わないでしょうか。応答性ではなく、「責任」が追及されるこの社会で。

 

思うに「責任」はつまるところ、誰かが無責任になるためにあるのではないかなと思います。自動車がある以上確率の問題で自動車に殺される人がいます。それに対する責任は自動車を生産する業界が担うのではなく、車にのっていた人が担うのです。自らの利益のために車を生産し、世界に広めた人たちの責任は存在せず、その無責任の分が余計に個別の運転者の罪として加算され、帳尻を合わされるのです。

 

一方、ニュージーランドの銃規制のように、銃は、使う人だけの責任ではなく、その流通や存在自体が問題だとされる向きもあります。ここにおいても社会が人に過度に理性的なものを求めるとき、誰かが自分の放棄した分の責任をかぶせようとしているのではないかと思えます。銃規制とは、その責任の配分をもとに戻すこと、つまり自己責任を押しつける社会に応答性を一部回復させているということなのかなと思います。

 

さて、先行知というものはまた別のアイデアもくれました。先行知はギリシア神話の神、プロメテウスが象徴するものであるそうです。wikipediaによると、プロメテウスは、"pro"(先に、前に)+"mētheus"(考える者)、という意味が合わさった名前とのこと。

 

プロメテウスは人間びいき?のようで、大きな牛を殺して、栄養のある肉や内臓を皮で包んで見えないようにし、一方骨は脂身で包んで美味しそうに見せて、ゼウスに選ばせ、ゼウスはまんまと骨のほうを選んで、食い出のあるほうが人間に残されました。ゼウスは怒って人間から火を奪い、その後人間は肉や内臓のように死ねばすぐ腐ってなくなるようになった、と。

 

なかなか示唆深いですが、すぐ腐る前は死体になるけれど腐らなかったのですかね。そもそも死ななかったのか? 別のサイトでは骨が神々の不死を保証するようになったというふうに記述されていたり。骨を選んだから不死になったって、じゃあもともとは神は死んでいたのかとまた同じような疑問が出ましたが、まあ、あまり前後とか関係ない世界なのかもですね。

プロメテウス(ギリシャ神話) - アニヲタWiki(仮) - アットウィキ

 

神には普遍性や永遠性があり、人間は限定的なものであり、一時的なものであるという感じで、属性が別れていくところなのですかね。そして火が与えられると。

 

火が文明や技術の象徴であるということなのですが、思うに火というのは言葉による意識の芽生えなのかなと思えます。能楽師の安田登さんが心は、言語によって生まれ、また心の特性とは未来と過去とをもつことだと指摘されています。

 

言葉をもつこととは、先行知(未来)を獲得することなのかなと思えます。しかし、言葉を獲得することの代償は高くつきました。プロメテウスにとっては岩山に貼り付けられ、毎日内臓をワシについばまれる拷問を受けることになり、パンドラが箱を開けたせいであらゆる災厄がとき離たれました。

あわてて閉めた箱には希望だけが残ったとのことでしたが、箱のなかに残ったということは封じこめられていて使用不可なのか、それとも希望は人間のものになったのか、どちらなんですかね。まあ、後者でしょうか。希望とは未来に対してもつもので、あらゆる災厄に対して、その絶望要素を相殺するものなのかなと思いました。あるいは言葉の世界では、希望をもつしか生きるあり方がないということとか。

 

人間は言葉で認識された世界のなかで生きていると思います。それは同時に世界との一体性を剥奪され、意味に存在が強迫される世界であり、意味という屈辱、拷問が不可避的に自分に烙印されるということでもあるのではないかと思っています。

 

楽園(無条件の肯定の世界)から追放されている言葉の世界では、肯定的な意味を得ないと耐えられないぐらいの苦しみを負わされているということなのではないかと思います。

 

しかし言葉によって認識する世界ではそうでしかあり得ないですが、言葉による認識が立ち上がる前には、世界との一体性があり、意味から解放された世界を生きているのではと思うのです。認識した瞬間、自分は世界との一体性から切り離され、そこから逃げられず、くだらない卑小な存在として対象化され、しかもあらゆる災厄を認識して怯える、という。

 

岩山に貼り付けられること、毎日オオワシに内臓をついばまれること、あらゆる災厄の蔓延がおこること、など、言葉をもつことがどういうことなのかが、あらゆるメタファーが総動員されて表現されているのではないかなと思うのですが、それを解釈すると、上に書いたようなことになるのではないかなと思うのです。

 

アニメの「君の名は」で、主人公たちは決して相手を同じ世界にいるものとしては認識できません。全ての痕跡は消去され、ただかつてそうであったような感覚の名残りだけしか感じることができません。

 

全ての人は言葉の世界という修羅の世界に入れられて、楽園を忘れているのですが、楽園は名残りの感覚としては存在しています。故郷は遠くにありて思うもの、というようにメタファーとしては言葉の前の世界を感じることができるのだと思うのです。

 

しかし、一旦言葉を立ち上げてしまうと、世界が立ち上がり、そのなかで自分が規定され、さらに自分にどのような肯定性が付与されるかを求めないではいられない、となってしまうのではないかというのが僕の仮説です。

 

括弧のつかない時間が意識されるとき、それは言葉が立ち上がり自分を支配している時であり、プロセスとしての「時間」は止まっています。逆に時間が意識されない状態になるとプロセスとしての「時間」が動きだし、閉じ込められていた意味の世界の風景、メリーゴーランドの風景が変わります。

 

言葉は死物なので、自己更新しないのです。よって言葉によって構成されている認識の世界もまた死物で「時間」が止まっています。つまり変わらないのです。その止まった「時間」の世界に自意識としての自分は投げ込まれています。

 

そもそも言葉の世界にはいらなければ、認識の更新などしなくていいのですが、言葉の世界に入った以上は、更新しないのは終わりのない拷問をされているのと同じになってしまうのだと思います。犬や猫には自然に学習する以上の「学び」は必要ないのに比べて、人間に「学び」が必要なのはこのためです。

 

止まった「時間」のなかに閉じ込められているということが、先行知をもつということの代償なのですね。一方後知恵(ギリシャ神話ではエピメテウス:プロメテウスの弟)というのは、この先行知の世界の穴から落ち、別の世界を体験することで、この先行知の世界の欠陥を引き受けるものになるのかなと思います。そこに勝利はなく、終わりのない負けがあるのですが、同時にそこで先行知の苦しみからは抜けていく存在になっていけるのかなと思います。