降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

喫茶ランドリー 対話的存在としての人間

ある言葉を確かめていくと、その言葉に関わっているあれとこれの動きが関わり、これとそれの動きが関わるということがおきてくる。そこに一つの自律的な体系がある。地下茎を切らずに手繰っていくように引き出していくと、現れてくる。

 

「対話」ははじめは話しをすることだと考えていた。が、そこでおこっていることのエッセンスは何かと考えていくと、対話は、変容をもたらすやりとりやそのあり方、変容が進んでていく過程のことであるのかなと思えてきた。それは話しをすることだけに限らない。

 

対話がおこるとは、その場所に潜在していて動き出すことを求めてはいるが、それができない力の動きや高まりが動きだし、そのことによって動きだしたものが、その場自体とそれを構成するものをともに変容させていくことだろうと思う。

 

一階にコインランドリー、家事室、喫茶スペースを併設した喫茶ランドリーの事例。最初毎日コーヒーを出して人を招き、呼びかける。やってきた年配の女性たちが喫茶スペースではなく家事室で歓談をはじめる。家族の忘年会をやらせてほしい、事務スペースでパン作り教室をさせてほしい、パンを焼く機械は近所の自分の家にあるから大丈夫といったことがおこったという。

 

毎日のコーヒーの招きいれは、来た人が自分の日常に喫茶ランドリーを位置づける接点、通路づくり。またこの場がよくある他の場所が持っているような規範によって構成されている空間ではないことを知ってもらう。

 

ある場にコミュニティのようなものが派生するとき、ある場は漁礁たり得たのだと思う。勝手にやってきたものたちの体が、この場所を自分が持っていた求めを展開させるために適すると感覚し、活動をはじめる。体が勝手に動くような場所とは、不安や恐れ、内在化させた規範による自己抑制が打ち消される場であり、暗黙に強制される規範を読み、それに従う必要がないと感じさせる場であるだろう。

 

体は自意識にも気づかれないような、自然な逸脱の機会を求めている。場の構造を感じとると、体は勝手に動きだす。年配の女性が、本来であるならばそこに移動すべき喫茶スペースではなく、家事室で歓談をはじめた。自然な話しの展開は、ここで話しなさいと言われてるような場所ではおきない。ある場所(ここでは喫茶スペース)に設定された明示的なコンセプトは、その空間に入った人の意識や行動をあらかじめ縛っている。そこに何かのコンセプトがあるとみなすだけで、人の思考や言動は既に規制されてしまう。

 

友人が帰るときに玄関口で話しはじめたら話しが終わらないというようなことがある。ある場とある場所の境界は、ここはこういう場所だとして、内在化されていたコンセプトを打ち消す。結果的に人は自由になる。縁側、街角などはそのような境界だ。その場が何であるかというコンセプトは内在化され、自動的に振る舞いが固定されてしまうのだが、そのコンセプトや前提を打ち消す仕組みや設定をもうけることで、自律的な動きが間隙を縫って現れてくる。

 

喫茶ランドリーのエピソードは、勝手にやってきたものたちがそこをどんどんと自分たちの共有のものにして、日常の規範の内在化によって雁字搦めになっていた自分から逸脱し、自分たちの生態系をつくっていく姿を見せてくれる。閉じ込められていた規範から逸脱していく媒体を人の体は求めている。

 

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喫茶ランドリーを対話という視点で捉えたらどうなるだろうか。ここでは、社会で人が「常識」として暗黙に求められる抑制が打ち消されている。そういう心配をしなくていい。普段あるような不安や恐怖、強迫が取り除かれた場所では、人は体の求める自律的な運動をおこすようになる。そして世界や周りの人に対して硬直していた関係性を弾力のあるものにj変容させていく。

 

対話がおこるためには、まずそこに関わりややりとりの必然があることが前提だと思う。そして潜在している不安や恐怖、強迫が打ち消される場の構造の設定が必要だ。自律的なものが動きだすことを止めているような見えない恐れを打ち消していくこと、取り除いていくことが対話をおこす。

 

これはオープンダイアローグのような話しの場においても変わらない要素だと思うが、話しの場の場合はもっと自分が揺り動かされるような事柄が扱われるのでより繊細な恐れの取り除き、場の否定的影響の打ち消しが必要になるだろう。どのように人の話しが尊重されるかということが追究された場の設定、技法が用いられる。押しの強い人やある特定の話題だけが場を支配することを打ち消すリフレクティング・プロセス。2人ではなく、多人数で行うことによる支配関係や強すぎる言葉の影響の除去など。

 

自由とは、つまるところ、自意識がしたいことをやるところにあるのではなく、自意識の間隙を縫って自律的なものが動きだし、自分自身や周りの関係性を変容させていくところにあると思う。それには整った環境や設定が必要だ。自律的なものが動きだすためには、普段はその場を支配しているもの、つまり強いものの統制支配を打ち消す必要がある。その強いものとは普段の自分の自分に対する、自意識の統制支配も含む。

 

人の普段の状態は、別に理想的な状態ではない。人は常に自分の社会の規範を内在化した自意識の統制支配を受けている。その安定は擬似的安定であり、欺瞞的安定である。対話や学び、出会いの必然性はここにある。欺瞞的安定の殻、否定するために同じパターンを繰り返す防衛反応が動き出さないような設定や環境を自らに与え、自律的なものを動き出させ、その力によって自分を変容更新させていく。その時、人は対話的存在だといえる。対話的存在であるとき、人は人足り得ているといえる。

 

「ありのまま」はその時点の状態の認識や評価を固定化したり、正当化することではない。それはまだ気づかれていないが、こうであらなければならない強迫的なものを取り除くための打ち消しを意図している。「ありのまま」は動いている。私はこうだと固定化したものは既に「ありのまま」ではない。

 

誰しもが自分の変容更新をもたらす対話をはじめる必要を持っている。対話は、それがおこりうる場を整え、設定し、自分に提供することによって派生的におこる。日々、呼吸し、食べ物を取り入れ排出することを必要とするように、対話を必要とする存在が対話がおこりうる場を自分に提供し、対話的存在として生きていく。対話的存在は、他者とのやりとりとプロセスと共にあるとき、対話的存在足りうる。