降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

学びが疎外される社会で

6つの学びの場をめぐって活動のお話しをうかがい、その後全員で「学びとは何か」というテーマで対話をする企画の打ち合わせ。

 

 

kurahate22.hatenablog.com

 

仕事上で必要な知識や技術を身につける学びはしているが、それだけだと息がつまる。それを補うために知らない分野の人や活動に出会うという話しがでる。

 

学びという言葉は不幸な言葉だと思う。そのイメージは、学校でやること、仕方なくやらなければいけないこと、しんどいお勉強など。

 

建前上どんなことも学びであるともいっているのに、実のところは認められたり評価されたりする事柄は限られてもいる。ゲームをやっていて、より優れたプレーを探究していても世間的に評価はされないどころか、意味のない活動をしていると非難されたりする。

 

学びとは、役に立つ・立たないということが軸にあるのだろうか?

 

結局、誰かが認めたことしか学びではないのだろうか。選ばれた人だけが言及できる特権的なものとしての、あるいは流通しているような何もかもごっちゃにされて敬遠される「学び」の解釈から、そのエッセンスの部分だけを取り出せないか。

 

学びとは、世界の見え方、感じ方が実際に変わることであり、いくら現実的に有用な知識や技術を身につけたとしても、世界の見え方や感じ方が変わらなければ学んだとは言えないと捉えるほうがすっきりする。

 

もちろん知識や技術を身につけたことで、世界への関わり方が分化し、そのことによって新しい感覚を得るのではあるけれど、それはその後にやってくるかもしれない学び、つまり認識の更新の準備や誘発状態を導く段階だととらえたほうがいいように思う。学び自体は、「起こる」ことであって、誘発はできても、意識の操作自体で更新を遂行することはできない。

 

仕事だけだと息が詰まるので別の分野の人や活動に出会いに行ったという先ほどの話しは、新しいものに触れることで世界の見え方、感じ方が実際に変わったということだと思う。

 

メリーゴーランドのように決まった同じ風景を見続けていると、息が詰まっていく。息とは外のものを取り入れることであり、身体の状態を循環させ、更新するものだ。息は意識していなくても自律的にされるものだが、息が詰まると循環と更新ができなくなる。「仕事だけで息が詰まる」と感じるならば、その時は精神の自律的な更新が滞り出しているということなのだろう。

 

生きているということは、体が物質的な循環と更新をし続けているということだと思う。だが人間の自意識は自然ではなくて文化的に作られたものだ。生きていないので出会いがなければ放っておいても自律的な循環更新をしない。

 

自意識による世界の認識の更新は、呼吸のように放っておいてもできず、わざわざ更新がおこるように意識的な状況設定や整えをすることが必要だ。それによってようやく世界の見え方や感じ方が変わり、世界はまたしばらく新鮮さを取り戻し、息が詰まった状態から息ができる状態になる。

 

この定義であれば、学びたくない人はいないと思う。学びとは、自分自身に対して生きていることの新鮮さを与えることがそのエッセンスだと考えるならば。

 

嫌なものやしんどいものとして植えつけられた「学び」ではなく、特権的な人に認められた「学び」でもなく、自分自身が生きていることを新鮮に体験するためにそれぞれの個人が勝手に、自律的に行なっていることこそが学びだと思う。その軸を奪われずにいる。あるいは自分に取り戻していく。

 

新鮮さを自分自身に与えることは、活力を生む。更新するべきだからしなければいけないのではなく、自分は生きている新鮮さを求めているのだからそれに応答していくということだ。そしてまた同じように感じられていく世界をもう一度新鮮にする。

 

学びへの欲求、更新への欲求は、裕福な人や時間のある人よりも、矛盾のなかに生き、苦しみ、抑圧されている人のほうが実は強い。

 

それは教育哲学者林竹二が被差別部落の生徒たちが通う定時制湊川高校の授業で体験したことだ。同じ授業をしても他のどんな学校の生徒よりも変わったのは湊川高校の生徒たちだったという。林は当時の文部省に支配されるようになった教育システムに絶望していたが、湊川高校の生徒たちとの出会いによって再生した。

 

学びが自分とは縁遠いもののように思わされるような社会かもしれないけれど、むしろ逆だ。学びはそれぞれの人のなかに最も自然なものとして取り戻される必要があると思う。