降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

4/11 星の王子様読書会 

毎月第二水曜日の星の王子さま読書会。

 

今回読んだところは王子がパイロットに激しくぶつかるところだった。

 

パイロットは命がかかっている不時着した飛行機の修理が思ったようにならないことに苛立ち、王子の質問にいい加減に応じる。

 

花のトゲはヒツジに食べられることを止められないのになぜ花はトゲを持つのかと尋ねる王子に対して、パイロットは花にトゲがあるのは花が意地悪だからだと答える。

 

王子は傷つき、強く反発する。君はまるで大人のような話しかたをする。そう言われたパイロットも痛みを覚える。そして王子はパイロットが助かるためにやっている「まじめなこと」などふくれあがった自尊心のかたまりのような男の金勘定のようなものだとパイロットを非難する。

 

王子は死なないことより重要なことがあると考えている。

 

死。

 

また常野雄次郎さんの生き方を思いおこしていた。現実に折り合いをつけ、論文を蓄積していったり、今後に続く活動を組織化していくことを常野さんはしなかった。学校の完全な廃絶、社会が不登校の醜さを醜さとして受け入れること、ローザ・パークスをあげてそのように革命に向かいあうべきだと主張する。

 

僕は、常野さんがそのようにしたのは、彼はあまりにも大きかった苦しさ、虚しさ、報われなさを生きるしかなかったからではないかと思った。闘い、直接世界とぶつかることしかもう彼にとって自身を動機づけることができなくなったからではないかと。


勝手な想像。いや、もともと自分の姿を他人や世界にみるものなのだ。本当の常野さんなど知らない。だが自分も常野さんのようだと思う。現実に折り合いをつけろと言われても、ただ生きるだけのために、「現実的」な生き方をして、苦労して我慢して生きることができない。ひとかけらのやる気もない。選んでいるのではなく、動員されるものが本当に空なのだ。

 

生きていけない恐れはある。だんだん行き詰まって、苦しんで死ぬのは嫌だと思う。しかし、もう嫌なことをしてまで生きていたいと思える気持ち、自分を奮い立たせるような甲斐がどこにもない。

 

それが欺瞞であると言われても、正直なところ、僕にとって死はいまだ逃げ先としてとらえられているところがある。フラッシュバックがきつかった頃、本当に耐えきれなくなった時に死んでもいいと思って、それまで耐えようと思ってしのいでいた。本当に耐えられないほど苦しくなれば死ねばいい。

 

やがてフラッシュバックは弱まっていった。だが残っていたのは、逃げることに条件づけられた自分だった。苦しくなれば死ねばいい。つらく嫌なことするぐらいなら死ねばいいじゃないか。かつて耐える手段だった死は、苦手そうなものをすぐ否定し、そこから逃げ、耐えないための理由になっていた。

 

虚しく、踏ん張るためのものが自分にない。すると、衝動的にやりたいことをやり、場当たりにしか動機を発生させられない。もちろん自分にしても、そのような状態がいいとは思っていない。騙し騙し、なるべく整えていく。落穂拾いをしていく。それを今までやってきた。そして今もやっていることだ。根本的な変化が訪れているわけではない。落穂を拾い、それをもってできるだけ自分の軌道を整える方向にずらしていくだけだ。

王子はパイロットに怒りをぶつけた後、しくしくと泣き出す。そして沈黙する。パイロットの気持ちはまるで一転する。喉の渇きや死の不安など、もうどうでもいい。ここに慰めなければいけない人がいるとパイロットは思う。

 

涙とはどういうものだろうと進行役の西川さんから問いが向けられる。

 

涙は緊張が解けた時にでる。とても我慢していたことから解放されたりしたときにもでる。緊張があるときは出ないのではないかと思う。

 

涙を我慢するときがある。何かのプロセスを終わらせないようにするとき。

 

ロバート・レッドフォード監督の「普通の人」や、「グッド・ウィル・ハンティング」のカウセリング場面を思い出す。

 

「普通の人」で最後にカウンセラーは主人公に思っていることを吐き出すように働きかける。主人公は他人に対して、思っていてもそれまで決して口に出せなかった否定的な悪口、そのカウンセラーの個人的な要素に対する嘲りや罵りを思いつく限りありとあらゆるものをぶつける。そして泣き出す。

 

「グッド・ウィル・ハンティング」では、決して自らの惨めさを認めない主人公に対して、カウンセラーは「それはあなたのせいじゃない」と繰り返す。わかっている、やめろと苛立ってくる主人公。だがカウンセラーは主人公の静止を無視して何度でも繰り返す。繰り返すのをやめない。怒りだし、攻撃するそぶりすらみせる主人公だが、もはや耐え切れず気持ちが極限に達して泣き出す。何があろうとすがっていた強い自分が破綻する。それは赦しであり、始まりだ。

 

涙は何かが終わっていく時に流れるものなのかと思う。何かが終わっていくという事態にであって、涙を見た人の意識は、今現在よりも、その人が紛れもなく背負っていたであろう過去の重さへと向けられる。そしてその過去へ投影されるものは、見る人自身がその涙に相当する思い出を呼び起こしているのではないかと思う。

 

また思い出したことがあった。パイロットの気持ちが一転したような感じ。自分にとってのものは何かと考えていたら思い当たった。

 

ある人が職を離れる前に聞いた同僚の心無い言葉。そこは重要で立派な機関であり、そこに勤める人たちは世間から認められている。素晴らしい人もいる。だが、その言葉を聞いた瞬間、その場所はもう何の価値もないところだと思った。たとえ世界平和を導こうが、今後どんなことを成し遂げようと全く関係なく、価値がないと思った。その言葉を取り返すために見合うものなど何もないと思った。

 

僕には、王子は生きることに追い詰められ、疲れて死んだ人の魂のように感じられる。傷ついていること、純粋なこと、自分の言いたいことしか言わないこと、自分の深い傷つきをパイロットとの間で再現すること、バオバブが生えてくるはずなのに自分の星を後にしたこと、そういうことが合わさってそのように感じられる。

 

山岡徳貴子作の異星人という演劇を見たことがあった。自殺を誘いあったメンバーが自殺を画策する。しかし後からその場所にやってきた人たちによって、彼らは実は既に自殺を遂げていたということが判明する。自らを死んだと認識できず生きているものとして振る舞う亡者。このテーマは、「シックス・センス」や「ゾンゲリア」などにもあった。

 

最初に二人が出会ったとき、王子は星を滅ぼすバオバブを食べてくれる機能をヒツジに求めていた。王子が求めたのは、ペットとしての、愛着対象としてのヒツジではなかった。最初にパイロットに機能としてのヒツジを求めるほど切実だった王子は、自分が生きていくために必要だった機能を持てず、それによって生を追い詰められ、奪われた人だったのではないか。

 

そしてトゲがあっても関係なく花を食べてしまうヒツジは、生きものの無慈悲さや機械性を表しているようにも感じられた。ヒツジは無力さや無垢さ、純粋さに加え、生きものや生それ自体の罪深さや機械性を表現しているのではないか。花はそれに対して、生という檻から抜け出たもの、あの世のものとしてあるのではないか。

生きるために必要だった「機能」を持ちえず、追い詰められ、疲れ、死んだ人の魂が星々をめぐる。彼はそのめぐりのなかで、生自体の機械性や意味のなさをもう一度確認する。彼は生きることの空虚さや非人間性に絶望しながら、それでも地球に降り立ったとき、まだヒツジという「機能」を求めていた。その機能によって自身の生を成り立たせようとしていた。既に死んでいて、もう戻れはしないのに。

 

地球で五千本のバラに出会い、唯一のバラに出会っていたという自身の幻想も打ち砕かれた王子だが、しかし失われた片割れであるパイロットとの出会いによって「機能」への執着を超えた他者との関係性を見出す。

パイロットは生きる機能は備えているが、元の心を見失った自分であり、彼は元の心を求めている。王子は生きる機能は持っていないが、元の心を失っておらず、しかし機能への囚われを超えられずにいるという葛藤を抱えた状態だ。王子はむしろ生の機械性、無意味さをもう一度突きつけられ、はっきりと見ることによって、バラの価値に気づき、自身の閉じた幻想の檻、終わりのない漂いから抜け出すことができたのではないだろうか。