降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

言い方の再設定 「〜ねばならない」から「〜させるわけにはいかない」へ

ある言い方を使って考える時、そこに含まれている前提に気づかないと、その前提に支配される。そこから生まれる結論は、前提のなかに押し込められ、現実に働きかける際に用をなさないばかりか、往々にして一層後退させると思う。

 

「主体(的)であらねばならない」、「主体性をもたねばならない」という言い方があるけれど、この言い方はおかしいと思う。

 

主体は主体でしかなく、主体であるだけなのに、主体をあたかも選択するかのように言う。しかも、「〜であれ」という命令に従うのが主体だろうか。あらかじめ決められた価値や方向性、あるべき姿があり、それに従うのが主体なのだろうか。

 

「あるべき」「ねばならない」のなかに主体はない。この言い方は、むしろ騙して主体を失わせるような倒錯的な言い方だと思う。

 

この言い方にある前提は、「あなたは主体ではない」というもの。よってこの言い方を自分に対して採用してしまうとき、主体であることが奪われる。この言い方を使うからこそ勢いが奪われ、力が奪われる。

 

同様に「意思が弱い」というような言い方も鵜呑みにするとその後がおかしくなる。

 

意思は意思であり、弱いも強いもない。現実に実行されるかどうかに焦点があてられているのはわかるが、「自分は意思が弱い」とか「自分は意思が強い」とか真に受けて受け入れてしまうと「意思を強くするためにはどうしたらいいか」などと考えだす。

 

だが、この言い方の前提は「自分は意思が弱い」なので、その前提自体によって、勢いは奪われ、考え出したときに既に疲れてしまう。

 

主体や意思は、それとしてあるものであり、自分や自意識がどうであれ、決して侵せないものとして設定しなおしてみればどうかと思う。

 

たとえば、具体的な言い方として、はじめから自分を受動的な不適応者「私はダメだ」「たどり着くのがしんどい」などの意味を認め最初から降参する倒錯的な「〜しなければならない」から「〜するわけにはいかない」、「〜させるわけにはいかない」に転換してみるとか。

 

「〜わけにはいかない」という言い方は、自分が明確な意思をもった存在だということを前提している。これが本来の言い方ではないだろうか。

 

生きものが生きていくために必要なありようは、NO!だ。違うということ。そうではないということ。

 

寒くなったら、寒いままでほっておく。お腹が減ったら減ったで放っておく。すると死ぬ。生きるということは、放っておかないということ。何かの作用に働きかけられたからといって、そのままにはしないということ。

 

意思は、全てを均一化していこうとする自然、環境に対して反逆し、ノーと言う力。意思は独立していて、自律的であり、自意識の上位にある。自意識にできることは、意思に後押ししてもらえることに限られる。

 

自意識は、どちらかというと、言葉を使うのではなく、言葉に支配されている。もともと存在し、生きていくのに必要な圧を送っている意思の力を自分で捉え直し、無効化、有害化するように。