降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

用をなす 行き場をつくる

自分に影響を与えた物語を10あげて紹介するという催しが終わった。

 

ヨコハマ買い出し紀行、ひをふくやまとあおいぬま、がわっぱ、大力のワーニャ、チョコレートをたべたさかな、ダンス・ダンス・ダンス竜馬がゆくデッドゾーン、ぼくを探しに、きらめきのサフィールを挙げた。

 

あらためてその本をみたり、周辺のことをウィキペディアで調べたりしていて気づくことがあった。選んだ物語に出てくるテーマは、孤独、異質さ、長い時間、黄昏、用をなすことなどかなあと思う。

 

長い時間とか、用をなすというテーマ性は後で気づいた。

 

絵本や児童文学は、大学からあらためて読み始めた。自分の心が反応するものにはパターンがあり、そのパターンをみていくとそこに共通するものなどが見えてくる。

 

大力のワーニャは、7年間かまどの上でひまわりの種だけを食べて黙って座っていた怠け者が大きな力を得て皇帝になるお話し。怠け者だが人を分け隔てしない気のいいワーニャがコインにまかせて冒険の旅に出る。

 

 

大力のワーニャ (岩波少年文庫)

大力のワーニャ (岩波少年文庫)

 

 

がわっぱは、たかしよいちが書いたもので、河童が山を海を長い年月をかけて渡り続けるというもの。旅の途中で太陽を沈めない力を持った長者と対峙し、これを破り休むことなく働かされていたその国の民を助ける。最初不思議な実から生まれた一匹が千匹となり、そして減っていき一匹となって消え、また不思議な実になる。

 

ワーニャとがわっぱは、大分違った物語だが、長い時間を経るというところは共通していると思う。

 

デッドゾーンは、スティーブン・キングが原作。映画化されたほうを先にみたのでそちらをとりあげた。これも主人公が長い昏睡状態になる。昏睡状態から目覚めた主人公は、触れた人の未来がわかる能力を得ているが、その能力は彼を幸福にしない。

 

 

デッド・ゾーン〈上〉 (新潮文庫)

デッド・ゾーン〈上〉 (新潮文庫)

 

 

彼は人の不幸を予言し防ごうとするが、それが周囲には受け入れられない。自分の子どもの家庭教師にと雇ってくれた恩人もそうだった。子どもと心からの友人になった主人公だったが、ホッケーの途中に氷が割れて子どもが溺れる悲劇を防いだかわりに彼は首になり、その関係を失った。父親は自分の子どもこそ連れていかなかったがホッケーの開催自体を止めることはしなかった。主人公は後日その事故を知り、電話をかける。放心状態の父親は電話をとるつもりもない。子どもが電話をとる。主人公は子どもが生きていたことを知る。だが彼はそれが確認すると、一言も言葉を発しないまま電話を切った。その沈黙で相手が彼だということ察知し呼びかけた子どもに応えることはしないままに。

 

 


The Dead Zone - The ice is gonna break - YouTube

 

ひをふくやまとあおいぬまは先日もブログに書いたばかりだけれど、これもひをふくやまピンネシルの噴火からあおいぬまピルカトーが回復するまで100年が経っている。

 

用をなすというのは、デッドゾーンなど、自分の能力を用いて世界を救うのだけれど、別に自分は幸せになるわけでもなくて、死んでしまったり、生きることを自分の使命にささげる、という感じのもの。

 

ベストテンにはあげなかったが、同じテーマ性をもった物語として、いしになったかりうど、ほしになったりゅうのきばなどがある。

 

 

 

ほしになったりゅうのきば―中国民話 (日本傑作絵本シリーズ)

ほしになったりゅうのきば―中国民話 (日本傑作絵本シリーズ)

 

 

 

ふと、用をなすということに自分が反応するのがなぜかわかったように思った。

 

僕は、ただ遊ぶために人と遊んだり、交流するだけのために交流したりしようとしない。単純にそういう対応ができないし、やる動機がない。

 

しかしどちらかというと、割と色んなところに顔を出したり、関心をもった人の催しにいったりするほうだ。それは自分が考えるための材料になったり、生きるために必要な情報を得るためにいっている。

 

人の話しをよく聞くときがある。本当に面白く思い、ぐっと聞いている。だが別に目の前の人の話しをきいてあげようとか、愛着をもっているから聞いているのではなくて、純粋に面白く、自分の考える材料にもなるから聞いている。自分が必要としているから聞いているだけ。

 

ろくでもないと思うけれど、損得なく、この人をどうしてやろうとか意図がないから、たちがいい面もある。友達になるためでも、親しくなるためでもなく、ただ話しが話しとして面白いから聞くし、話す。

 

たぶん、割と多くの人が、親しくなれる人がいれば、親しくなることを割と求めているんじゃないかと思う。しかし、僕はあまりそうではなくて、だれかと親しくなろうとするよりも話しの内容のほうを心が求めている。関心あることを話し、やりとりし、自分が求める理解にたどり着こうとしている。

 

映画ライフ・イズ・ビューティフルに、クイズばっかりしかけてくる男がいる。日常だろうと、ナチスの収容所だろうと同じように。友達が収容されていても、彼の関心はクイズだけ。

 

ライフ・イズ・ビューティフル [DVD]

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自分のようだと思った。このような自分を恥じるし、ろくでもないと思う。でもせめてクイズ男のようにあからさまに、一方的に人を利用するようなことは避け、自分でありながらもできる限りフェアでありたいと思う。

 

自分の追求はどこまでいっても自分都合だけれど、それはシェアできる場合もある。人の役に立つ場合もある。また話しを聞くことも、相手にとっては頭や心の整理などになる場合もある。

 

結局自分の本質はクイズ男のようでしかありえない。しかし、相手にとってもフェアであることを設定し、選び続けようとすることはできる。これが用をなすということだと思う。

 

放っておけば自分はただ人から奪うだけだろう。しかし、それが生きていくのに不都合だということもわかる。だから相手の役にも立つことを設定する。そこで人と関わることができる。

 

そして自分の異質さ、孤独、欠陥は、残念ながら人とわいわい話したり、楽しいことをしたりでは埋まらないのがわかる。自分の追求したことの結果が、本当に役に立ったか、機能したか。そのことによって埋まるように思う。その瞬間に自分は人とともにいると感じられる。

 

だから自分は、ただ自分として用をなす人間として生きればいいし、そのように生きるだろう。そういう構造だから。